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第1章 さざ波が彼を連れてきた
ザザーン、ザザーンと波打つ音を聞きながら私は帰り道を急いでいた。仕事終わりに課長から言われた話があまりにも理不尽で、同僚に愚痴っていたら思ったよりも時間が経ってしまっていた。そろそろおじいちゃんが漁から帰ってくるというのに……。
いつもは右に行くところを、近道をするために浜辺の近くを早足で歩いていると、何人かの話し声が聞こえた。
砂浜であかりがちらほらと見える。こんな時間にいったい何が?
気にはなったけれど、気にしている時間はない。帰ってきたらおじいちゃんにでも聞いてみよう。海で起きたことならきっと知っているはずだから。
私は慌てて意識を戻すと、帰り道を急いだ。
慌てて帰ってきたわりには、一時間が経ってもおじいちゃんが帰ってくることはなかった。おかげで、肉じゃがのジャガイモには十分に味が染みこみ、ほろほろになった。味噌汁も温め直せばいいだけだし、ほうれん草の白和えは器に入れて、礼装底冷やしてあるから出すだけだ。
それにして、さっき浜辺が騒がしかったのは、やっぱり何かあったんだ……。私は和室から縁側に出ると、空を見上げた。そこには一等輝く北極星と、そのそばでおおぐま座――北斗七星が輝いているのが見えた。
「帰ったぞ」
ボーっと空を眺めていると、玄関から声が聞こえた。どうやらようやくおじいちゃんが帰ってきたようだ。
「おかえりー。遅かったね」
「おう、ちょっと布団敷いてくれ」
「布団……?」
おじいちゃんの言葉に何事かとパタパタと玄関に向かう。するとそこには、おじいちゃんと……おじいちゃんに担がれた誰かの姿があった。
「え……誰?」
「浜辺で倒れていたんだ。ほら、さっさと布団」
「あ、うん」
さっきまで私がいた部屋に予備の布団を敷くと、おじいちゃんはそこに背中に担いだ人を寝かせた。
私より少し年上に見えるその人は、苦しそうな表情で眠っていた。
「この人って、もしかしてそこの浜辺に倒れてたの?」
「よくわかったな」
「さっき帰る途中で騒がしかったから……」
「そうか。まあ起きたら話を聞くとして、晩御飯にするか。待たせて悪かったな」
おじいちゃんはそう言いながらテーブルの前に腰を下ろして新聞を手にする。私は台所へと向かうと、冷めた肉じゃがと味噌汁に火を入れた。
「ん……」
お椀にお味噌汁を注いでいると、聞き覚えのない声が聞こえた。
もしかして……。
「ここ、は……?」
「気が付いた?」
「誰……?」
「おじいちゃん、気がついたみたいだよ」
私の声につられるようにして、おじいちゃん新聞を机に置くと和室へと向かう。その人は布団から身体を起こして、辺りを訝しげに見ていた。
「おお、気付いたか。気分はどうだ?」
「あ……だいじょう、ぶ……です」
「そうか。浜辺に倒れていたところを連れて帰ってきた。どうしてあんなところにいたが覚えているか?」
「……いえ」
おじいちゃんの言葉にその人は小さく首を振る。眉間にしわを寄せて不安そうな表情をしているその人に、私は声をかけた。
「ね、名前なんて言うの?」
「名前……?」
「そう。私は明莉っていうの。あなたの名前は?」
「俺、の……名前……っ……!」
苦痛に顔を歪ませながらその人は頭を抱えた。
突然のことに私とおじいちゃんはどうしたらいいのかわからず、痛みが治まるのを待つことしか出来なかった。
「大丈夫……?」
「あ、あ……」
「どうしたの……? 頭、痛い?」
「……思い出せないんだ」
「え……?」
「俺の名前も……俺自身のことも、何も思い出せないんだ」
その言葉に、私は思わず呟いた。
「記憶、喪失……?」
「記憶喪失だと?」
「この前一緒に見たテレビでやってたでしょ? 何かショックなことがあったり強い衝撃を受けたりで記憶を失うことがあるって。それなんじゃないの……?」
浜辺に倒れていたということはどこからか流されてきたか、浜辺までやってきて何かがあったということだ。
でも、どこかを怪我している様子はないし、何より服が磯臭い。
これはきっと海を流されてきたんだ……。
「ドラマの見過ぎだ」
「だってー」
まるでこの間見たドラマの探偵のような私の推理を、おじいちゃんは鼻で笑う。
不満そうなわたしの声に「まあな」と、おじいちゃんは彼の方に視線を向けた。
「自分自身のことが分からないというけれど、それはどの程度だ? 名前は? 年は?どこに住んでいた?」
「それが……本当に、何も……。名前も、年も、俺自身が誰なのかもわからないんです」
「……そうか」
お手上げだ、とでもいうかのようにおじいちゃんは首を振ると少し何かを考えたようなそぶりのあとで、もう一度口を開いた。
「まあ、とにかく……今は飯でも食うか」
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