黄昏夫婦

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「ただいまぁ」  酒のせいか、普段より少し柔らかい夫の声が、玄関ホールに響き渡る。 「おかえりぃ」  床を擦るスリッパの音がだんだん近くなり、間もなくリビングのドアが開いた。 「なにやってんの?」  夫がゆっくり近づいてくる。 「白髪染め。そろそろ目立ってきたから」  鏡越しに、私は答えた。 「ふぅん」  頭頂部を見下ろす夫の顔が、鏡の中に映り込んだ。  老いを隠さなくなったのは、いつからだろうか? 「早かったんだね」 「ああ。明日も仕事だからね」  僅かに笑みをこぼした夫の呼気から、微かにアルコールの匂いが漂ってきた。 「ポトフ作ったんだけど、明日の朝食べる?」 「うん。そうしよっかな」  上の空で、夫が答えた。  以前は喜んでくれたポトフも、年季が入ればこんなものだ。  聖子の言う通り、私たちはもう若くない。いつまでも新婚気分でいられるわけがないのだ。  鏡の中のほうれい線を眺め、私は大きく肩を落とした。 「悪いけど、先お風呂入っちゃっていいかな? これ、洗い流したいから」  頭を指差し立ち上がろうとした私を、「ちょっと待って」と夫が止める。 「後ろ」 「へっ?」 「後ろもあるよ。白髪」 「ほんとに?」  迂闊だった。  こめかみと頭頂部は気づいた時にチェックしていたが、後ろ髪までは気が回らなかった。 「じゃあもう一つ鏡持ってこなきゃ」  早くしないと、先に塗ったところと差が出てしまう。  慌てて立ち上がろうとする私を、再び「待って」と夫が止めた。
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