魔法の目

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「長いようで短い旅でしたね…ほんとうに。」  チラチラと揺れるかまどの火を見つめ、わずかに微笑んで先生はぽつりと言った。今まで意識していなかったが、淡い橙色の火の明るさに照らされて目元の皺に気がつく。そういえば先生の年齢を知らない。三十代半ばから四十くらいだろうか。 「あの、これから先生はどう過ごされるんですか?」  お互いに顔を合わせて視線を交わすことはなく、かまどの中でゆらゆらと踊る火を見つめたまま話をする。 「これからは、」ゆったりとした動作で温かい紅茶を口にし息をつく。「この村で魔術師ではなく、画家としてやっていこうと思います。」  ぐっと心臓が重くなるのを感じた。あの先生が魔術師をやめる?どうして?すぐ隣に座る先生の横顔をちらりと盗み見ると、とても穏やかな微笑を浮かべ、黙って火を見つめている。目元や口元の皺、その横顔から、都から村までの片道の旅の間には感じることがなかった老いを確かに感じた。しかし腰が曲がり齢八十を数える現役魔術師も数多くいる。一体どうして天才魔術師が突然やめてしまうなど言い出すのだろうか?頭の中に疑問の渦が巻き起こり、いま僕が話せることは何もなくなってしまった。  気がつけば部屋の中は完全な暗闇で満たされており、かまどの火の明かりが僕たち2人だけを包むように照らしている。 「私も歳をとりました。もう疲れたんです。」どこか遠くの景色を見やるように虚空を仰ぐ。「だから都での仕事を辞めて、この静かな故郷に帰ったら好きなことをしようってずっと考えていました。」  橄欖石のような透き通る緑の瞳を揺らし、自嘲を含んだ笑みを浮かべて先生はそう言った。今まで尊敬している先生の言葉は全て、一字一句漏らさぬよう全身に染み込ませてきた僕にとって、それは鏡のように凪いだ水面を荒れ狂わせる大粒の水滴のようなものだった。 「幸い、王宮で働いていた分、お暇を頂いたときにお金は沢山貰いました。ここは田舎ですし十分に暮らしていけます。だから大丈夫です、心配しないでください。」  先生は笑っている。顔を皺くちゃにして笑っている。 「先生、嘘ですよね。」息を呑む音が聞こえた。一寸の間。「たった一人の弟子にくらい本当のことを言ってください。」  やっとこっちを見る。吸い込まれそうな瞳が大きく揺れ、輝いている。 「騙せないですか、さすが弟子ですね。」先生は笑うと、大きく長く息を吐いた。「でも、疲れたのは本当です。ずっと都を離れて静かな場所で絵を描きたかったのも本当。……本当でなかったのは私なんです。」  先生が言葉を切ると、一瞬にして静寂が周囲を満たしてしまう。鼓動の音、息遣いや衣擦れ、かまどの中で薪が爆ぜる音。静かなせいか瞬きをする一瞬すらも、ひどく長く感じる。いやに粘度のある時間だ。 「都の人々は、私のことを魔法の目を持つ天才魔術師だと呼びました。でも全部嘘なんです。私はずっとたくさんの人を騙してきたんです。」  不思議と動揺することはなかった。夢か幻を見ているかのような気分で、目の前の老いた先生の言葉をただ黙って受け入れている。まるで魂がこぼれ落ちたかのような奇妙な脱力感に襲われる。  嘘のようにひどく静かな夜だ。自分の浅い呼吸を繰り返す音だけが、大きく聞こえて耳障りで仕方がない。
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