03

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 貪欲は粘り這い、執拗にくっ付いていた。それはもう単純な『したい』では無くて『解消したい』に変化したものだった。どうにかして本当の私を抑えて、上っ面の私で居なければこの先本当に気が狂いそうになってしまった。しかし、解消法など見当たるはずも無い。要はその顔を見れれば良いのだが、いや駄目だ、絶対に超えてはならぬ一線である。友人では無く、人間として、私は決心した。当たり前のことを決心したのだ。  目を閉じて気を抑えた。昼間の陽光が瞼に差し掛かった。目を閉じた先で小さく明るんだ。明るみの先に彼女の顔が現れた。空想の中の私がカッターの先を出した。その尖った刃を肌に向けて─────そのワンシーン前で私は跳ね起きた。最早逃げ場など無かった。何処に居ても、私は欲に踊らされていたのだ。欲から逃げたい、逃げたい、と思う内に、私の中で悪魔の妥協範囲が生まれていた。かすり傷程度なら私と分からないのではないか。嗚呼、人為も倫理も道徳も私を鋭く睨み付けた。しかしそれでも、本当の私は暴れ出ていた。ふと、私は近くに乱雑に置きっぱなしにした鍵を見付けた。鍵。鍵、なら─────。手に取った。床の間を出て、漠然と洗面所へ向かった。鏡を見た。そこに在ったのは賢者の顔では無く、腹ただしいほど良い顔をした『私』だった。もう何処にも、自制心など無かった。  翌日の曜日の廊下はやけに人が多い。私は久しぶりに明羽と対面した。相変わらずの満天の笑顔を振り撒き、此方に近付いてきた。心臓は壊れるほど鳴っていた。罪悪感がまるで無かった。気味が悪い欲望だけが、そこに居た。  腕。  腕。  白色。  腕。  傷。  かすり傷。  腕。  腕。  腕。  その手に力が入った。         「ねぇ」  と、彼女はいきなり、本当にいきなり此方を向いた。顔色が悪い事を案じて、心配そうな目を向けた。私の中でぐっすり眠っていた理性がハッと目覚めて、反射的に鍵を手中に隠し、それからサッとポケットに仕舞った。ブワッと汗が滲み出た。何を、私は、()()()()()()()()()()() 「大丈夫?凄く似合わない顔してたよ。あんな厳つい顔、初めて見た」  冗談交じりで、そう微笑んだ。私は、この笑顔を壊そうとして、いたのか。嗚呼。嗚呼、止めてくれ。私に─────私だけには、そんな『優しい顔』を向けるのは止めてくれ!  勿論そんなことは言えずに、私は適当な話を交わして、何事も無くその日を終えた。  思い返せば、あれは地獄の仏のだったように思えた。  私は家に帰った。  欲はもう消えていた。  代わりに、罪悪感だけがそこにあった。  目を伏せた。情欲はもう居ない。彼女の儚げな笑顔だけがそこに在った。  ゾゾゾゾゾッッ、と背筋が冷たくなった。汗でも寒気でも無かった。手が震えた。歯を鳴らした。もし一歩間違えたら、私は─────。後悔と猛省が押し寄せた。もし明羽が声を掛けなければ、私の手は本当に動いていた。彼女のお陰で私は道を外さずに済んだのだった。  それでも私はタチが悪かった。情欲と成り代わって、罪悪感がその日から、私の心を支配し始めたのである。だから、私は、真面に明羽を顔を見ることが出来なかったのだ。笑う度、脊髄をギュッと締め付けられるような、とにかくそれはもう苦しい気分になって、その度に目を逸らして、私は何をしているのだろうと、下向きに問い掛けるのだ。近付いてはいけない気がした。明羽だけでは無い。友人も、何気無く私に集まってくれる。せめて孤独であれば、私は私に相応しい状態となれたのだろう。  地獄よ。これも又、冒涜だろうか?私を気にかけて関わってくれる人々への、大いなる仇であろうか。  ─────地獄。  そう、地獄。私の居場所は、きっと本来そこなのだ。私はある日から、「地獄」と単語をふと呟くようにした。そう言えば、救われる気がしたのだ。救われるとは─────ここでは許されることだった。もう、そうするしか、私には無かったのだ。自分に言い聞かせ、身勝手だとか傍若無人だとか言われても、その言われたことからまた逃げ去り、縋るしかなかった。地獄。地獄よ。私を何とかしてくれ。私は信じた。信じることで負担を感じなくさせたのだ。病は気から、に似ていた。頭が痛い時に頭を物理的に押さえたところでそれほど意味が無いように思えるけれども、押さえる行為をすることで何処か頭痛から逃れられそうな気持ちがある、それのようであった。嗚呼、地獄、これが私の最後の拠り所だったのである。枚挙に(いとま)がないほど唱えていた。『自分を信じれば救われる』、いつか聞いたそれをふと思い出した。確かに信じたことで救われていた。自分で自分を救っていたのだ。だが、助けることはしていなかった。  思い返せば、私は幸せ者にも不幸者にもなれなかった。後ろめたい暴走が永遠に背中に纏わり付き、常に暗い気分であったが、それでも、好意を向けた人が居て、友人にも恵まれていた『優しい人』の私は決して幸せ者でないと言い切れなかった。せめて、初めから明羽だけにでも嫌われていたのなら、ここで少しでも気取れるであろうものが、客観的視点からはあまりに頷き難い相対評価であり、それも又、私の人間性の一片だったのである。あの学問と同じだった。結局、ずっと私は中途半端なのだ。  賢者と愚者、ないしは幸せ者と不幸者の話で言えば、それに継ぐように姿を現したものも在った。私は希望も絶望も出来なかったのである。希望とするには後悔が重なっていた。絶望とするにも安堵が煌めいていた。ドス黒い欲望の他には、何も無かったのだ。『優しい人』の反対側はもぬけの殻であった。賢者でも、愚者でも、幸せ者でも、不幸者でも、希望でも、絶望でも無い私は、とても利己的な人間だった。私はただの黒ずみだった。もう穴など見えなかった。見えぬほど、黒ずんでいたのである。  それから時は経って、暦上では師走になっていた。私は臆病だったから、結局どこかで甘えを見つけて、未だに明羽の近くに居ることが出来た。  気が付いた時、外でしんしんと雪が降り始めた。例年より早い降雪である。明羽は雪が好きなようであった。比較的長く降って、しばらくすると止んだ。白い雪面が随分と綺麗に広がっていた。いつの日か雪で遊んだことを思い出した。クリームのような真っ白の雪だが、遊んでいると土と混ざって、いやに汚らしくなった。ふと、触れられていない白銀の霜が現実を隠しているようで感動したのだ。  その雪が、先程まで降っていた。私も明羽も用事があったのですぐに外には出られなかった。彼女は雪が溶ける前に終わらせようと躍起になっていた。私は今の自分と照らし合わせた。今の自分は、雪時雨の白で一時的に覆い隠されている汚れだったのだ。つまり、混ぜ込まれたら─────。  私は窓から目を離した。それでも窓辺の白雪は、彼女の瞳に反射して美しく輝いていた。
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