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いつも通り午前七時に店が閉店し、洗い物や掃除を済ませると、木乃実は「お疲れ様です」を最後まで言い終わらないうちに店を飛び出した。今日は混雑したせいで、閉店作業に時間がかかってしまったのだ。待ち合わせまで、あと五分しかない。
いつになく呑気なエレベーターを待ちきれず、木乃実は脇の階段を駆け下りた。メイクを直せなかったことが心残りだが、『ポセイドン様』をお待たせしてしまう方が、彼女にとっては許し難い大罪なのである。
ビルを出て、目の前を往来する車に地団駄をたっぷり踏み、ようやく道路を渡る。『ポセイドン様』はいつも通り、向かいのカフェ、ホトトギスでお待ちだ。
(ちょーギリギリ。危なかった!)
自動ドアが開く間際、パッツン前髪を手で撫でつけて整えた。それから大きく深呼吸をして、ようやく店内へと一歩を踏み出す。
鼻先をくすぐるのは、コーヒー豆を煎る芳ばしい香り。大正ロマン風の和洋折衷したレトロモダンな内装はまるで非現実で、アニメやゲームの世界と同様、いつも木乃実の心を踊らせる。
そんな店内の一番奥、先週と同じ席に彼は座っていた。木乃実と目が合うと、乙女ゲーム『シャイニングラブ』のキャラ、ポセイドンさながらの笑顔で彼女を手招きする。
(今日も目が幸せ過ぎて泣きそう)
木乃実はその凪の海のように穏やかな笑みにクラクラしながら、彼の元へと急いだ。
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