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白の章1──藤堂──
暦で言えば、大暑。
陽のあるうちはうだるような暑さであるけれど。
夜ともなれば気温は下がる。
夏の短夜に、涼風が過ぎゆく。
山の麓、それよりは少しだけ高い場所にあるこの家は、丁度そんな夏の夜の恩恵に与れる。
少し季節に早い虫の音。
蛙の合唱。
昼間は距離があって届くはずのない、遠い遠い電車の音。
それらを聞きながら、私は一日の仕事を終え、私室にて寛ぎのなかにある。
今宵はウイスキーを、ロックで。
開け放した窓から、ほのかに除虫菊の香がただよう。
私はこの蚊遣りというものの風情が好きだ。
冷房などというものは、どこか味気ない。
温暖化、とやらで夏の暑さは厳しくなっていくばかり。
幸いにしてこの場所には、まだ夏の宵を楽しむ余裕が残っていた。
それとて、もう幾許かすれば失われてしまうものなのかもしれないが。
この国、この土地の夏の夜といえば、こんな過ごし方が正しかろう。
ああ、失礼。
まだ誰とも名乗っていなかったね。
私の名はエ――。
……おや。
こんな時間だというのに、誰か来たようだ。
母屋の方だろうか、物音が聞こえたのだが。
仕方ない、行ってみるか。
先日、ありあまる資金を注ぎこみ屋敷の警備を手厚くしたばかりだが。
その警備システムは今のところ作動した形跡はない。
しかし万一という事がある。
わが主である市岡老の身に、もしものことがあってはならぬ。
静けさを取り戻した屋敷を、母屋につづく廊下を渡り、主の寝室に向かう。
ぴったりと雨戸の鎖された廊下側に膝をつき、そこから声をかけた。
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