38人が本棚に入れています
本棚に追加
友人も居なかった母の葬儀は、七歳の将仁と二十五歳の将義のみでひっそりと行われた。
当時、医者の研修医の将義に葬儀代を出す金はなく、母は火葬場へ直送された。僧侶も呼ばず火葬のみの葬儀で、小学生になったばかりの将仁は、将義と手を繋いで火葬炉へ入っていく棺を眺めた。
「ボタンを押してください」と火葬場職員の男が淡々とした声で放ち、将義は弟の指を解き、押してすぐに小さな手と再度繋ぐ。
将義の手は──震えておらず、しっかりと力強かった。
「痛い」と将仁は思うも、将義の横顔が何かを決意したように真っ直ぐに火葬炉を見つめていて、将仁は兄に声を掛ける事が出来なかった。
そこに、男から声を掛けられて兄弟は後ろを振り返った。
喪服姿の男女が並んでいて、男が二人を見て申し訳なさそうに顔を歪めてから二人して頭を下げた。男の顔を将仁は見た事がある──母がくしゃくしゃになるまでに握り締めた写真に写っていた男だ。
将義は一言も発さなかった。二人が頭を上げてさえも。
大人し気のほっそりした女が、将仁を見るとニコリと微笑みかけてきた。それに釣られて笑みを浮かべると、将義から手を引っ張られて兄の背に隠されてしまう。
「何しに来た」と抑制のない声で将義が吐き捨てた。
「俺は呼んでいない」
「母さんの緊急連絡先がまだ俺になっていたんだよ。それで病院から連絡があって知ったんだ」
「今更どんな面をして、葬儀に顔を出したんだ。しかも女と一緒に。息子二人に黙って家を出て行ったならば、母親が死んだ後でも徹底的に無視するべきだろ。死んだからって顔を出すのか」
将義は突き放すように言い、二人に背を向けてまだ稼働している火葬炉に視線を戻した。それでもその男は将義の話しかけるなオーラに気付かないのか、空気が読めない男なのか、将義の腕を掴んだ。
「せめてもの罪滅ぼしにお前たちの学費だけは払ってきたんだ。それが俺が唯一出来る事だった。俺はあのヒステリーに限界だったんだ。逃げるような形になってしまったが、お前たちの事だけは気がかりだった。しかしあんな女の傍に居続けたら、俺がどうにかなっちまいそうだった。将義も母さんのそういうところ、分かるよな?」
自分の話ばかりだなぁ……と将仁は幼いながらにそう思って、父親という男を見た。
結局は息子二人を見捨てて逃げた事は変わらないし、精神病棟で入退院を繰り返していた母の生活能力は皆無なのに、元旦那が生活費と養育費を払うのは当然ではないか。
それに、その女性を見て分かるけれど、左手の薬指に刻まれた日付は、将仁がまだ赤ん坊だった頃の年月日だ。つまり、家を出てすぐにこの女性と籍を入れた事になる。
次男が生まれる前から関係を持っていたに違いないし、元妻がヒステリー云々は後付けで、ただの言い逃れだ。
将義の背中に隠れながら、将仁は父親を盗み見て「自分勝手な男だな」と心中で呟く。
──将仁、七歳はアニメは観ずに夜遅くまで海外ドラマ、ニュース番組ばかり観ていたせいか、子供らしい発想をしていなかった。常に斜め上から見ていて──子供らしいのは外見だけである。だから、女の薬指に嵌められた指輪の日付まで観察してしまうような子供だった。
「将義には苦労を掛けたな。……将仁にも」
突然話しかけられて、父親を見上げた。男は将仁を見て笑みを浮かべたが──目の周りに変化がなく、口だけが動いている事に気が付いた。
将仁は苦労はしていなかった──将義から面倒を見てもらっていたからだ。母のヒステリーの被害も受けた事はなかった。
「歳はいくつになる? 八歳か?」
「七歳だ」と将義が刺々しく吐き捨てる。
(捨てた子供の年齢なんて興味ないんだ)
だから、嘘の笑顔なんて浮かべているんだ。
「七歳というと小学一年生か。手がかかるだろう?」
なんか……いやだなぁ。
心配しているようで──これっぽっちも思っていない。声だけイントネーションを変えていて、目に感情がない。
「研修医は忙しいだろう? 家を留守にする事が多いだろうし、どうだろう。少しもの罪滅ぼしをさせて貰えないか。将仁を俺らが引き取って育てよう」
「──!?」
驚いて将仁は声が出せなかった。
何を持って、私を引き取るのが罪滅ぼしになるんだろう? 今まで放っていたのに?
こんな話を母が燃えている最中で話す事ではない。
将仁は将義の手をぎゅっと握り締めた。
「勿論、将義への援助は続けるよ」
将仁はゴクリと唾を飲み込んだ。
将義が自分の世話と研修医として追われて自分の時間を持てていない。のびのびと過ごしているのは弟だけである。
兄が弱音を吐いて所を見た事がない──本当は兄ちゃんは、僕を重荷に思っているんじゃ……。
(手のかかる僕が居なくなれば、兄ちゃんは大学の勉強と自分の世話だけで済む)
将仁はじわりと涙が浮かんだ。
母親が燃えていても泣かなかったのに。将義の傍から離れなきゃならないのは辛かった──僕の親は兄ちゃんなのに。
「ふ、っ……」兄さんの震えた声が耳に入る。
思わず見上げると顔を真っ赤にしながら、父親を睨みつける将義が居た。
「ふざけるな……! 苦しい時に助けもしないで今更? 弟を育てたい? 将仁の年齢さえ覚えていないくせに、何を言いやがる!」
「実は俺達、子供が出来なくて」
「だから、将仁を引き取りたいだと!? 金さえ渡しておけば済むと思っているようなてめぇらに、将仁は渡さない! 育てられるわけねぇだろ!」
怒りで震え、声を荒げる姿を見るのは生まれて初めてだった。
将義は父の後ろに立つ女性を睨みつけた。すると、彼女は気まずそうに俯いて目を逸らす。
「てめぇの子供が出来ないからって、俺の弟を渡すわけねぇだろ。病院でも行って不妊治療を受けるんだな」
「将義。長い目で考えるんだ」
将義は男から腕を掴まれたが、その手を払い除けた。
「将仁は俺が責任を持って育てる!」
そう叫んで幼い私の肩を掴んで自分に引き寄せる。将仁は将義の脚にしがみ付いた。ジワリと潤んだ涙が兄の喪服を濡らしていく。
「他人の不幸の上に生きるお前らに弟は渡さない! 二度と俺達の前に姿を現わすな!!」
最初のコメントを投稿しよう!