序章

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 空港のロビーのど真ん中、人が行き交う中で兄の瀬田 将義は弟の将仁を抱き締めて、わーわーと泣きじゃくっていた。  二人の横を通る人たちにじろじろと見られ、将仁は非常に恥ずかしかったが、アメリカへ留学してしまう自分との別れを悲しんでいるのだと思うとこの腕を振りほどくわけにもいかず、それを慰めるかのように少年は背中を優しく叩く。 「将仁、毎日電話するから」 「うん。時差とか気にせずに電話してよ」  両腕を緩め、一歩離れた将義の顔は顔が鼻水だらけで酷いものだった。鼻筋がスッキリと通り目鼻がハッキリとしたイケメンが台無しになっていた。  その顔を見て将仁は笑った。 「大げさだよ。一年留学するだけなんだから」  のほほんと将仁は答えたが将義にとってその一年は短くない。 将仁はほぼ将義が育てたと言っても良かった。18歳年下の弟のオムツを替えていたのも将義だし哺乳瓶のミルクを作っていたのも離乳食を用意していたのもお風呂に入れていたのも風邪をひいて病院へ連れて行っていたのも、すべて将義だ。  18も離れているという理由だけでなく、母親が情緒不安定でそんな母親に預けていては命の危険があり、父親はそんな母親に嫌気がさして女を作ってさっさと出て行った。その中で弟を守るのは将義にとって当然の事だった。  勿論学校のありとあらゆる行事に出ていたし、入学式卒業式なんて当然出ていた。仕事を休んででも。緊急のオペが入っても、だ。  医者になったのも弟一人を養えるほどの稼ぎが貰えると思ったからだし弟が病気を患ったら助けられると思ったからだ。すべては弟中心に回っていた。文字通り目に入れても痛く無いほど、猫可愛がりをした。おかげで自分一人でレンジも使えない男の子となってしまった。  ある日弟は中学に入って、自分の夢を語った。英会話を今から習いたいのだと言った。 弟は夜中に放送する海外ドラマにハマっていた。それは凶悪な犯罪者たちをプロファイリングし、事件の解決に臨むといった内容のものだった。 実際に英語で聞いて理解したいのだという。 昔から心理学に興味があるようで図書室から借りる本は犯罪心理学や探偵物、警察、幼い子に読ませるには抵抗があるような内容で、将来が不安になったのだが、小説を読む途中で自分なりの登場人物のプロファイルを語る弟の姿が、あまりにも眩しかったし、楽しそうだったから、 「兄ちゃんに任せろ! 兄ちゃんはこれでも主任だし、稼ぎはあるから! 思う存分好きな事をするんだ!」 弟の夢を叶えたいが為に自分の胸をドンと叩いて見せる。 ──その時の将仁の顔と言ったら…!!  かくして、弟は英会話を学び、高校へ入学してすぐに、 「アメリカへ留学したい」  と言い出した。  どうやら将仁は英会話は将来アメリカへ留学する為で、高校もアメリカ留学ができる所を自分で選んだようだった。目に入れても痛くない程可愛がり、面倒を見てきた弟をまさかアメリカへ行かせるなんて頭になかった。修学旅行先の京都でさえ心配するくらいだ。しかもその修学旅行の準備も全て将義がやっていた。何一つ自分でした事のない弟がアメリカで一年間も生きていけるなんて思えなかった。 「留学先の高校が犯罪心理学の授業を受けられるんだ。本場で習いたい」  将来、犯罪心理学者になりたいと夢を語る弟の夢を邪魔するわけには行かなった。この兄は、弟にとことん甘いのである。  高校二年になってすぐ、将仁はアメリカ留学の切符を手に入れたのだった。 「まず着いたら電話してくれ。こちらが夜中でも全然構わないからな」 「うん」 「あと危険な場所へは行かないように。治安は日本より悪いんだから」 「勿論だよ、行かないよ」  と将仁は答えた。  しかし心の中では、ごめんと謝罪する。そういう場所へ足を運んで本場を見たいと将義は思っていた。本当にドラマのように薬を売っているのかとか、ギャングがたむろっているのとか、抗争しているのか…。将仁は危険もない温室育ちなのである。いざという時はどうにかなるだろう、とのんびり考えていた。もし口に出して言えば将義が血相変えて卒倒してしまうのは分かり切っていた事だったので、口には出さない。 「一年たったら帰って来るよ! んで、大学行って、精神科医になるから兄ちゃんと一緒に開院しようよ」 「──開院?」 「そう。兄ちゃんは小児科医でしょ。俺はその子供のメンタルチェックしたりさ。瀬田心療小児科内科? とかどう? 仲の良い兄弟が診てるってだけで有名になれる気がする」  将仁は将来、プロファイラーになりたいと幼い頃から思っていた。しかし、日本ではこの分野は発展しておらず、夢は叶わない事を子供心に分かっていた。だったら、日本でなれないのたら、人の心の奥を覗ける精神科医になろう。将仁は、悪趣味だが人の心の隠している部分を暴くのが好きだったので、別にプロファイラーではなくても良いか、と考えていた。  のんびりとした口調で話す眼鏡を掛けた弟の瞳をレンズ越しにじっと見つめた。その瞳はキラキラと輝いていて、夢を語っている姿に将義は込み上げる思いに耐え切れず、再度将仁を抱き締めて、泣きじゃくったのだった。おしめを替えた弟と電話越しでしか声が聞けなくなるのが辛過ぎた。  将仁はそんな兄を抱き締め返す。今生の別れではないのだから、こんなに寂しがらなくてもいいのに、と苦笑した。 「将来の為に兄ちゃんいっぱい稼ぐから」 「うん。でも身体を壊さないでね」  暫くして抱き合っていると、将義が乗る飛行機の搭乗アナウンスが流れてきた。  二人はそこで離れた。兄と打って変わって、弟は笑顔だった。 「電話するね」 「ぐす…あぁ」  将義は涙を流す兄に手を振りながら、背を向けて、搭乗ゲートのある方へと進んでいった。将義はその背中が小さくなって視界に映らなくなるまで見送ったのだった。 ※ ※ ※ ※  自分の席へ着くと将仁は窓から空港を見つめた。 ここからの距離だと空港のロビーの窓ガラスに映る人は豆粒程度にしか見えず顔までは見えなかった。でも、将仁には分かった。顔は見えなくとも、そこで兄はこの飛行機を見守っているだろう。この飛行機が飛び去って、見えなくなるまで、ずっと。  将仁の瞳から涙が一筋流れた。一筋流れてしまえば、終わりだ。次々と延々と流れてくる。兄と一緒に居た時は何ともなく振舞っていたが、実際は別れが悲しかった。不安よりも楽しみが勝ってはいるが、兄との別れは別だ。母親よりも父親よりも兄と過ごした時間の方が長かった。その庇護を受けれなくなるのは、凄く寂しかった。  豆粒程度しか見えない、きっと兄がいるであろう場所をじっと見つめた。涙で余計見えないが、そんな事は気にしない。  ──電話は毎日するから。  飛行機が飛んでも、空しか映らなくなっても将仁は窓の外を眺めたのだった。  将仁は、この時までは確かに日本へ帰るつもりだった。  ──まさか、十八年も帰らないとは夢にも思っていなかったのである。  
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