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兄が死んだ。
居眠り運転による事故で、気付いた時には既に遅し。
直前で目が覚めてブレーキを押したが間に合わず、ガードレール突き破って崖へ転落。そのまま即死だったらしい。
遺影写真に納まった兄である瀬田 将義は瀬田 将仁の記憶よりも遥かに老けていた。当然だ、十八年も会っておらず電話で声しか聴いていないのだから。
写真に写る兄は小さく微笑みかけていて、将仁の記憶の中では見た事がなかった。年の離れた弟をあやす時はいつも全力で、遊びたい年頃であったにも関わらず青春時代を全て将仁に費やした。記憶の中の兄はそれに対して愚痴も言わず、大きく口を開けて楽しそうに笑っていた。将仁の前で一切声を荒げる人ではなかった。唯一それがあったのは母親の葬式だったと将仁は記憶している。
将仁は今年で三十三歳になる。アメリカの友人達からは「日本人は童顔」と良くからかわれていた。彼らにとって日本人は同じ顔に見えるらしいからと将仁はさほど自分の事を童顔だと思った事はなかった。しかし、将仁は日本人から見てもベビーフェイスだ。顔は小顔だが、目は二重で黒目で大きいがパーツである口も鼻も小さくまとまっている。顔だけ見れば童顔だが、前髪を上げて額をすべて露出させ、オールバックにし、縁無し眼鏡の下の瞳は目尻が下がり優しそうで、その表情は穏やかで誠実な印象を見せていた。服装もアイロンのかかったワイシャツにネクタイ、ベストという清潔感が見え、それが余計知的で誠実な印象を与えていた。それに、人畜無害に見えるのだ。
そんな将仁はじっと兄の遺影を眺めた。
(兄さん──老けたな……)
将仁はポケットにしまっていたカード入れを取り出してそっと開いた。そこには一枚の古びた写真が収められていて、笑顔の十八歳の将義と母親に抱かれた赤ん坊の将仁が写っていた。
この写真の頃から三十三年の月日が立っているのだ。変わっているのは当然だった。
『お兄さんが交通事故に遭われて、お亡くなりに──』
見知らぬ着信番号の電話を出れば、女性の声でそう伝えられた。
やりかけの仕事をほったらかして、身一つで日本へ帰国した。
十八年振りの帰国だった。兄とは昔よりも回数は減ったが電話でいつも話せているし、このご時世テレビ電話があるのだ。一度も試した事がなかったがいつでも顔は見れるだろうと思っていた。
(急に死ぬなんて思ってもいなかった)
将仁は呆然としたまま仏壇の前に座り、仏壇の前に置かれている骨壺を手にした。日本では火葬だった事を思い出す。将義の死に顔も拝めなかったと骨壺をじっと見つめて座り込んだ。
それは酷く軽く、本当に兄が入っているのかと将仁は思った。
「天候の都合で葬式にも通夜にも間に合わなくてごめん……兄さん」
慌てて空港へ行ったものの、ハリケーンで足止めになったせいで日本へ到着した頃は、全て終わっていて兄は燃やされた後だった。
将仁はその骨壺を膝の上に抱えると、抱き締める指に力を入れた。
甘やかされて育った自覚はあった。我儘一つ言っても全て許され、兄の手は常に優しかった。それはきっと両親の愛情を受けずに育った将仁への配慮だったのだろう。一人で二人分の役割を兄は担っていたが、どうも厳しさは抜けていたように思える。
将仁が生まれて間もない頃に、二人の両親は離婚した。
母はヒステリックでその上アルコール中毒だった。そんな母に嫌気が差した父は女を作って出て行くと母の症状は悪化。常に呑んだくれ、将仁を見れば蔑んだ。
『あの男にそっくり!! 産まなきゃ良かった!』
何度も手を挙げられたが、それが当たった事は一度もなかった。将義が間に入り、代わりに受けていたのだから。
将仁の記憶の中の母は常に泣いているか暴れているかの姿しかなかった。
(──なんて、兄不幸な弟なんだろう)
将仁はそう心中で呟いた。
『英会話習いたい!』
『兄ちゃんに任せろ!』
『アメリカに留学したい!!』
『兄ちゃんに任せろ!』
否定された事などなく。
『アメリカにこのまま残りたい』
そう言った時の兄はどんな声だったか──将仁は思い出す事が出来なかった。
反対はされなかった。ただ、一言『将仁の帰る場所はちゃんと残しているから』とだけ。将義は弟はいつでも帰って来ていいのだから、安心しなさいと言ってくれていた
将仁はアメリカでグリーンカードを手に入れて、就職先も決まり、「いらないよ」と言っても将義は仕送りをやめようとしなかった。そんな彼に初めての給料日にブランドの時計を贈ったら、感謝を言いながら泣いて電話してくれたのを将仁は今でも覚えている。それから彼は「稼げるようになったならいらないか」と寂しそうに呟くと将仁への仕送りはなくなり、しかし誕生日には必ずプレゼントは欠かさず、将仁の手元へ届いた。
欠かさず電話はかかってきた。それも将仁が仕事前の早朝。日本では夜中にもかかわらず。
(私が副業で、趣味でゴシップネタを書いているなんて知ったらどんな顔しただろ……)
将仁は本業とは別に趣味でセレブのゴシップネタの記事を書いている。それがまたセレブたちの行動を心理学を基づいて書いているもので絶妙に合っているのである。地味に売れ筋の高い記事を書いていた。将仁はこんな風に好きな時に好きな事をして好きな仕事をして生活を送っていた。
ぽろっと頬を熱い水滴が伝って流れる。
(訃報を受ける前にあった着信へ出ていれば……)
訃報の連絡を受ける前で将仁は将義からの電話の着信へ出る事ができなかった。仕事中に電話がかかってくるなんて一度もなかったのだ。緊急の用事があったのではないだろうか。
将仁は瞳から止め処もなく流れる涙を手の甲で拭った。
人の死が間近にある生活をしてきたけど、こんなに後悔の残る別れは初めてだった。
「ぐすっ……兄さんっ……」
もう少し、仕事と趣味にかまけないで兄さんと話せばよかった。
声が聞きたくなった。
将仁は人はまず声から忘れるらしい、という事を思い出していた。
──ガタっ
突然背後で戸が開く音がして、涙を手の甲で拭きながら振り向いたら、そこにはセーラー服姿の女子高生が立っていた。
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