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「愛美さん」
そこに立っていたのは、グラスに氷をいれた麦茶をお盆に乗せて手に持っていた将義の娘の愛美だった。
肩まで伸びたストレートの髪に、背が高くスカートからはスラリとしたら長い足が伸びていた。小顔で目のぱっちりとしている二重が今は窪んでいて、目の下にはうっすらとクマができてしまっている。
愛美は困ったように眉を下げると将仁は余計慌ててしまった。
「ごめんなさい……タイミング悪くて……」
「いやいや! 出ていかなくて良いから!」
リビングを出ていこうとする愛実を慌てて呼び止める。いつのまにか涙も止まっていて、腕に抱いていた骨壷を仏壇に戻すと、おずおずと目の前に座った愛実は将仁に冷えた麦茶を差し出した。
「連絡もなく、突然押しかけてしまって申し訳ない……住所は知っていたんだけど、連絡先を知らなくて」
「ごめんね…」と将仁は頬をかくと愛美は悪戯っぽく笑ってみせた。
父親が亡くなったばかりで、泣き腫らした後の目のせいで物静かな印象だったが、その笑顔を見ると性格は活発のようだった。リビングに飾られた野球のユニフォームを着た彼女の写真がそう物語っている。スポーツ少女なのだろう。チームの真ん中で優勝トロフィーを抱えた笑顔の彼女は瑞々しく、光り輝いていた。
「ごめんね、本当に。私が住んでいた頃はこんなに家が建ってなかったから」
「自宅前をうろうろしてたから、すごく怪しかったです」
ふふっと笑った愛美に「いやはや」と将仁は呟いた。
身知らずの三十過ぎの男が家の前でうろうろしていたら流石に不審者だ。そこに、セーラー服の彼女が現れ
「どちら様ですか?」
と話し掛けてくれた。
「本当に話しかけてくれなかったら近所の人に警察を呼ばれる所だった」
「もしかしたら、と思って話しかけたんです。それに将仁おじさんは父にそっくりだからびっくりした」
「そう? 似てるって言われたの初めてだよ」
「目元かな」
そう言われて将仁は遺影を見るが、似ているように思えなかった。兄の目は自分と比べて釣り上がっていて、自身は眦が下がっていて仕事仲間から「弱そう」とまで言われてしまっている。しかし、このひ弱そうなのが、案外他人は油断をするのだ。その隙を狙って相手を心理攻撃するのがこの男は得意だった。実際、この男は「弱そう」ではなく体力面はからっきし駄目で「弱い」ので、仕事仲間の推測は間違いではなかった。
「娘がいる事は知っていたんだけど、赤ん坊の頃の写真しか見た事なかったから、本っ当に愛美さんを見てびっくりしたよ。目の前に」
「こんなに、可愛い子がいるんだもの」と彼は微笑んで言った。
人見知りしない将仁は、愛美との初対面での印象を世間話をするかのように述べようとしたが、口に出す前に思い止まり思いとは裏腹な事を述べた。実際に彼女は世間一般的に言えば美少女の類だから、口に出しても可笑しくはないだろう。しかし、この男が述べたかったのは、彼女が誰に似ているかだ。
(──自殺した母親にそっくりだなんて口が裂けても言ってはいけない。気分を害してしまう)
最初目にした時──タイムスリップでもしてしまったのかと思って息を呑んだ。
その癖のないストレートな髪に、睫毛の長い二重の目、キュッとしまった薄い唇は亡くなった母親に瓜二つだった。その目の下の隈のせいで余計似てしまっている。
将仁は、幼い頃の母親を思い浮かべた。
──いつも呑んだくれていた。彼女は酒に酔うと将義の腰に抱き着いては泣きじゃくっていた。
『──義、将義』
『お願い、貴方だけはママを捨てないで』
その時の兄は──といけない。
将仁は眼鏡の下から目頭を押さえると頭を振った。
(いやいや、駄目だこういうのは。死んだ人間までプロファイリングするのはよそう)
昔から将仁はこうだ。
誰かが何かに対しの行動を見てしまうと、その理由を考え答えを導き出して答え合わせをするのが将仁の悪趣味だった。それが秘密であればあるほど、探り出し、暴き、表沙汰にする。例え、傷付けてしまったとしても。罵られようが将仁はそれを止めなかった。この悪趣味は仕事として生かし、話の通じない殺人鬼の心の奥を覗く事やセレブのゴシップを記事にして売り出す事は彼にとって天職だった。
しかし、この悪趣味は同僚達からは嫌われた。だから友達も少ないのだと言われている。今ではその警察での同僚達とは唯一無二の仲間となったが当初は外国人でもあり、その上この性格が嫌われていた。彼は彼なりに彼らの大きな秘密は見ないように心掛けたつもりだが、つい目に付いてしまうと、嘘を暴きたくなるのである。
(──不謹慎でごめん、兄さん)
心の中でそう呟くと将仁は兄の遺影を見た。やはりどう見ても自分に似ているようには見えなかった。
愛美に視線を移すと、彼女の頬が僅かに染まっている事に将仁は気付いた。フト、
「可愛いって言った事に照れてるの?」
ヤバい、声に出してしまった。つい疑問に思う事はその場で聞いてしまう。
すると愛実の顔がみるみるうちに赤くなり、彼女はそれを隠すかのように咳払いをして見せた。
「私の話は良いから、叔父さんの話をしようよ」
「私の話?」
(私の話と言えば海外セレブのスキャンダラスな話と、先日逮捕した脚の親指の爪の収集癖のあるシリアルキラーの話くらいしかないんだけど……)
そんな話を女子高生が聞きたいとは到底思えずに将仁は思わず黙り込んでしまった。むしろ、彼は黙っていた方が物事がうまく進む事が多かった。
「えっと、パパが叔父さんのことを毎日話してたの」
黙りこくった将仁の代わりに彼女が将仁に話し掛けた。
「博士号を取ってグリーンカードを取得して、外国で警察署で犯罪心理学者として活躍してるって」
「毎日?」
「うん。寝る前にね絵本のかわりに叔父さんが子供の頃の話ばかり嬉しそうに話すの」
何故だか想像できてしまい、将仁は苦笑した。
「だから叔父さんと初めて会ったのに、初めての気がしないんだ。昔から知ってる人みたい」と愛実は懐かし気に目を細めた。父親との思い出を浮かべているのだろう。その笑顔が悪戯っぽくなる。
「叔父さんがおねしょを四歳の頃までしてて、七歳の頃にアイスをたらふくたべたせいでおねしょしちゃって、『僕は二度と夜中にアイスを食べません』と泣きじゃくりながら誓いを立てて、十一歳で夢精をして風呂場でパンツを洗っている姿を見て声を掛けたら言い訳しだして、その時の言い訳が」
「ちょ、ちょっと待って──そ、そんな話までしたの!?」
将仁はすっとんきょんな声を上げながら、顔を真っ赤にした。
(兄さんは、年頃の娘に何を喋ってたんだ!)
「兄さんは、過保護だったんだ……」
顔を両手で覆い隠しす。
「おかげで私は学生時代レンジも洗濯機も使えなくてね……海外で一人暮らしを始めた当初が一番苦労をしたよ。ボタンを押せば良いなんて知らないから」
常に食事は用意されていて、冷めた食事なんぞ出された事はない。小児病棟に勤務していた兄は激務で疲れていたにも関わらず家にいる時は必ず朝食を作り、弁当を持たせ、学校が終わり帰宅した頃には温かい夕食が出来上がっていて、夜食まで用意される。兄が家を留守にする間は現金を持たされてコンビニで買うように指示をされた。コンビニで買う弁当は温めて貰うから、自分でレンジを使う事はないのである。家事なんてした事もない。だから洗濯機なんてアメリカで初めて使ったのだ。日本に居る頃は、包丁なんて握ろうとも思わなかった。おかげで一人暮らしは苦労をした。今では慣れたもので、手元を見なくともウサギのリンゴを切れるくらいに成長した。
「今思えば、兄さんが過保護になったのは母さんの葬式の後からかな」
将仁はズレた眼鏡を真っ直ぐに戻すと昔を懐かしむように眼鏡の下で目を細めた。
「私、その話聞いた事ないかも!」
「ほんとう? あれは私が小学生になったばかりの頃なんだけど——」
将仁は昔を思い出すように、瞼を閉じて母親の葬儀を思い出した。父親と駆け落ち同然で家を出た母親は身寄りはなく、寂しいものだったと記憶している。
将仁は、その時の話を愛美に聞かせようと口を開いた。
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