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母親を骨壺に入れて、火葬場を離れたその帰り道。空は透き通ったように蒼く雲一つなかった。
その蒼空の下、将義から肩車をされていた将仁は泣きじゃくっていた。自分を引き取るという話を聞いて、兄と離れ離れにさせられてしまうと絶望した。なんせ兄はまだ学生で、将仁は七歳だ。
父は、「研修医のお前では弟の面倒は見れない」と言った。二十五歳の将義は研修医ともあって帰りは遅く、家を留守がちだ。そのせいで将仁を育てる能力がないと見なされ、「児童施設に預けなければならない」「そうなったら将仁が可哀想だろう。だったら俺達が面倒を見る」と騒ぎ、その中を将義は父を無視して、灰から母親の骨を拾って骨壺に入れてから、将仁の手を引いて火葬場を出た。
将仁は子供らしい思考は持ち合わせてはおらず、小難しいテレビばかり観てはいたが、知識はその範囲しかなく。世間の常識からして、兄と過ごせなくなってしまうと思うと小学一年生の将仁の心は張り裂けんばかりにぐちゃぐちゃだった。
兄ちゃんの顔も見る事を許されず、知らない子供たちと狭い部屋に入れられて、食事もまともに与えられず、虐待され、殺されてしまうのだ。
「──将仁、そんな事にはならないから」
無意識に言葉に出していたらしい。
どこから声に出して喋っていたのか思い出せず、将仁は口を閉じた。それでも嗚咽が洩れてしまい、「ひっく」と肩を震わせながら兄さんの頭にしがみ付く。将義の髪からはアクアカシスの香りがして、その香りを二度と嗅げないと思うと――。
「しらないぃ、ひととぉ、しゅみたくないぃいい……」
将義の頭に抱き着いて、泣きじゃくりながら首を振る。
ぐすぐすとしていると、ひんやりとした手が膝に触れて慰めるかのように擦ってくれた。
「兄ちゃんは将仁とずっと居るよ」
「ほんとぉ……? ぼくがいても、にいちゃんのじゃまにならない?」
「なるわけないだろ!」
将義の声は震えていて、時たま声を押し殺したように嗚咽だけが洩れていた。
母親が亡くなった時も火葬炉で燃やされている時も涙一つ流さなかったのに、今になって泣いていた。
「将仁は俺の宝なんだから。兄ちゃんは何一つ苦労させないからな」
「にいちゃんと一緒にいたい……」
「ずっと一緒だ!……何があっても兄ちゃんが守るからな!」
※ ※ ※
「――って事があったかなぁ。兄さんはそれから大学にバイトに私の世話に、って自分の時間を惜しまずに見てくれたよ。母さんが亡くなる前と全く変わらなかったけどね」
――私の前では、苦しいような表情は一切見せなかった、と将仁は将義の姿を思い浮かべていた。将仁がアメリカ留学への見送りの際に大泣きをしたが、その間で将義が声を荒げる事は二度となかった。将仁の小学校卒業式、中学校入学式卒業式、高校の入学式……イベント毎に涙を流す場面は沢山ありはしたが。
「私がする事に何一つ反対しなかった。お陰で私は好きに生きる事が出来たんだ」
兄は――そうではなかっただろう。
それでも、将義の瞳は本当に心の底から弟を愛してやまないように映っていた。もしあれが偽物ならば、兄は道化師だ。
「その思い出はパパにとってとても大切だったのかな。なんでも話してくれたのに、その話だけは聞いた事ないもん」
愛美はそう言って笑った。父親を懐かしむような瞳だった。
そんな愛美が、ふと真面目な顔をして自分を見てきて将仁は思わず背筋を伸ばしてしまう。
愛美の細い指が、正座をしている膝の上に置いた自分の手に触れる。野球をしているだろうに、細い手首に将仁はどぎまぎしてしまった。指が触れたかと思うと、彼女は将仁にスッと音もなく近付いてきて、彼女の膝が将仁の膝と触れた。愛美は将仁の瞳を真っ直ぐに見つめて、
「パパの叔父さんの話を聞いて、ずっと会いたいって思ってた。会えて嬉しい」
「不謹慎だけど……」彼女はそう言って俯いた。表情に陰が差し、将仁はそれを払拭するかのように明るい声で、
「私もだよ!」笑窪を作り、幼く見える人好きそうな顔だ。その明るさに惹かれて愛美は顔を上げて、その笑顔に釣られた。
「兄さんとの電話で愛美さんの話題が良く出てきていたよ。私に過保護だったんだ、愛美さんにもそうだったでしょ?」
「うん」
愛美は頷くと、将仁は「想像つくよ」と言った。
二人で思い出に耽っていると、家の外から懐かしい曲が流れて将仁の耳に入って思わず窓の外を見てしまう。午後五時を知らせるメロディを聴いたのは実に十五年振りでこの音楽が流れるまでに家に帰るように、と年の離れた兄に口を酸っぱくして言われていたのを思い出した。
「そう言えば、優希さんは?」
優希、とは将義の嫁であり愛美の母親の名前だった。
将仁は優希とは一度も会った事はなく、将義と優希との結婚式の写真でしか顔を知らない。午後五時になっても帰らないという事は、パートだろうか?
いや……待てよ、と将仁は顎を擦った。
玄関に女物の靴はなく、愛美さん分の靴しか置いてなかったように思える。
しまった、触れてはいけない事に触れてしまったかもしれない、と思って愛美の表情を見たが、その表情は呆然としていて驚いている様子だった。
「し、知らないの?」
「何を?」
愛美から聞かされた話は、将仁には寝耳に水であり、変な声が出てしまった。
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