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「そこにいる小春の水揚げを俺にさせろ。」
私はすっ転びそうになり、高尾姉さんは持っていた扇子をポトリと床に落とした。
宴席の場が一瞬で凍りついた空気になった。
花魁を予約してわざわざ呼んだのに、その花魁ではなくお付きの見習い遊女を指名するだなんて前代未聞だ。
最上級の花魁にとってこんな屈辱的なことはないだろう……
乱れた気を落ち着かせるためか、高尾姉さんは小さくコホンと咳払いをした。
「水揚げは経験豊富な殿方に優しく手解きしてもらうもんや。主さんはとてもそんな感じには見えないでありんすなあ。」
「ああ、気持ち良すぎて失神するかもな。なんなら先にあんたで試してやろうか?」
遊女は言わば性のプロだ。
そんな遊女にとって「気を遣る」こと、つまり絶頂を迎えることはしくじりの一種とされていた。
気を遣ると妊娠してしまうと言われているし、一日に何人もの客を相手にするので一回一回本気で感じていたら疲れて身体が持たないからだ。
遊女達はあくまでも客を喜ばせるために感じたフリをしているだけなのである。
なのに、失神させてやるだなんて……プロ中のプロである高尾姉さんに対してなんて無礼な奴なの?!
「もう一度言う…小春の水揚げを俺にさせろ。悪いようにはしねえ。」
賑やかだった太鼓の音もいつしか止み、噂を聞きつけた茶屋中の人がワラワラと見物に集まってきた。
高尾姉さんが私を近くへと呼び寄せた。
「高尾姉さんゴメンなさいっ!」
「そんなことはいいわ。それより、小春はあの人と知り合い?もしかして恋仲なの?」
「違います!神社で勝手に絡んでくるタチの悪いチンピラです!!」
「チンピラねえ……でも彼の着ている羽織、一見質素に見えるけど裏地が物凄く凝った裏勝りよ?しかも金糸が使われてる。相当な金持ちなんは間違いないわあ。」
あの粗末な古着にしか見えない縞模様の羽織が、そんな値打ちのあるもんなの?!
江戸時代、贅沢を禁じた幕府はたびたび奢侈禁止令なるものを出した。
大っぴらに派手な着物を着ることが出来なくなった町人達の間で、豪華な絵柄を裏地や長襦袢に忍ばせることが流行したのだ。
にしてもさすが高尾姉さんだ。
裏地がチラリと見えただけでそこまで見通せるんだから。
……って、関心している場合ではないっ。
「いくら大金持ちだろうが性格が最悪です!あの羽織だって本当は盗んだのかも!」
「おいっ聞こえてんぞ。水揚げさせてくれんのかくれないのかどっちだ?」
「させるわけないでしょ!!」
「相手を決めんのは花魁なんだろ?てめえには聞いてない。」
「あんたなんか高尾姉さんに袖にされろっ!!」
「……袖ってなんだ?」
「振るっていうこと!まさか高尾姉さんに気に入られるとでも思ってんの?!」
「ガキに俺の魅力が分かってたまるかっ!」
「そのガキに執着してんのはどこのどいつよっ!!」
「うるせえ!!ぐたぐだ言わずに黙って俺に抱かれろっ!」
「う〜る〜さ〜い───っ!!」
滅多に怒らない高尾姉さんがキレた。
花魁を蔑ろにして痴話喧嘩みたいなこの言い合い…失礼きまわりなく怒って当然。猛省である……
「主さんはそれを頼みたいがためにわざわざ大金を叩いてわっちを呼んだでありんすか?」
男はニッと笑って頷いた。
「小春に惚れてる言うことで間違いござりんすか?」
「ああそうだ。いずれは嫁にしたいと思ってる。」
よ、嫁……??
水揚げの話がなんで身請の話にまでなってんの?
吉原のことを何も分かっていないこんなバカな男の話はもう聞かなくていいから、今すぐ追い出してくれと思ったのだが……
高尾姉さんはほうとため息を吐くと、惚れ惚れしたように男を見つめた。
しまった…高尾姉さんはこの手の色恋話が大好物なんだった。
葵ちゃんのことがあったばかりだ……協力するでありんすとか言い出しかねない。
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