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落とし穴
それからというもの、花月は暮れ六つになると吉原にやって来ては私の部屋に泊まっていくのが日課となった。
花月は私に面白い話をたくさんしてくれた。
江戸の町で行われた大食い大会でご飯を68杯も平らげた人がいただとか、三度罪を犯すと額に犬の文字の入墨をされる地域があるだとか、お伊勢参りの道のりで見た雪帽子を被る富士の山の、天を見上げるほどの壮大さだとか……
花月の話は尽きることがなく、一晩中でも話しをしてくれた。
そして花月はしばしば稲本屋を惣仕舞した。
仕舞とは遊女の一日を貸し切ることをいい、惣仕舞とは妓楼にいる全ての遊女を貸し切ることをいう。
といっても全員と寝床をともにするためではなく、時間だけを買い取ってみんなを休ませてあげたのだ。
しかも出前を自由にとらせてあげるという太っ腹な心意気に、遊女達は泣いて感謝した。
日頃は金金とうるさい楼主も花月の金払いの良さには大喜びだった。
そんな男気溢れる花月に私も段々と惹かれつつ、仲良く過ごしてはいたのだけれど……
「きゃっ、花月!どこに吸い付いてんのっ?」
「項に米粒が付いてた。」
そんな箇所に米粒が付くわけがない。
私との約束通り花月は手を出してはこない。でも口なら出す、やたらと出す。
花月の理論では口ならばどの部分に吸い付こうが約束を破ったことにはならないらしい。
……んなわけあるかっ!
「小春は食べ方が豪快だからなあ。ほら、ここにも。こんなとこにも……」
首筋や鎖骨を這う舌の感触がなんともヤラシイ……
色好きの花月がよくここまで我慢出来てるなあと申し訳なくは思うんだけど……
胸元にまで顔を突っ込んでこようとしたのでさすがに頬っぺたを引っ張たいた。
朝になり花月を大門まで見送ると、いつものように私に口吸をしてまたなと去っていった。
こうやって花月の小さくなっていく後ろ姿を見るのもあと数回。四日後には私もこの大門をくぐるんだ。
花月と共に───────……
流行る気持ちを抑えながら稲本屋にいそいそと戻ると、高尾姉さんが若い衆に支えられながら東へと歩いて行こうとしていた。
ずっと会っていなかったけれど、体調を崩して寝込んでいるとは聞いていた。
こんな朝早くからどこに行こうとしているのだろうか……
嫌な予感がして見世の前で見送っていたお薗さんに尋ねた。
「ああ…河岸見世の方の妓楼に移るでありんすよ。」
「なんで?だって高尾姉さんはあと半年で年季が明けるんだよ?」
お薗さんは残念そうに左右に首を振った。
吉原の町は穴ボコだらけだ。油断していたら直ぐにまっ逆さまに落ちてしまう……
私はお薗さんが止めるのも聞かないで、角を曲がって見えなくなった高尾姉さんのあとを追いかけた。
「……あら、小春?見送りに来てくれたん?」
前にも増して鼻声が酷い……
久しぶりに見る高尾姉さんは病魔に侵されていた
───────梅毒………
梅毒とは、遊女が非常にかかる率が多かった性感染症だ。
江戸時代では効果的な治療方法はなく、数年~10年ぐらいで死去に至っていたという恐ろしい病気だ。
なのに、吉原では梅毒になった遊女は「一人前になった」とされていた。梅毒になると妊娠や出産がしにくい体になるからだ。
梅毒には第1期と第2期のあとに、数年から数十年にも及ぶ潜伏期間があった。
江戸時代の人々はここで治ったと思い込んでいたのだ。
しかし、長い潜伏期間を挟んで、約30%が晩期顕症梅毒へと発展する。
再び梅毒が目覚めると、皮膚や筋肉、骨などにゴムのような腫瘍…ゴム腫が発生するのだ。
この状態になってしまうと、死が近いとされていた。
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