落とし穴

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楼主を怒らせたらどうなるか…… この稲本屋だけじゃない、きっと吉原にだって出入り禁止になる。 いや、それだけならまだいい。大ぼら吹き野郎だと江戸中の笑いものにされるだろう。 そうなったら花月は絵師としてもやっていけなくなる。 今ならまだギリギリ間に合う…… この二ヶ月、花月のおかげで稲本屋は今までにないくらい潤ったんだ。だからきっと許してもらえる。 「小春、逃げるか?」 楼主に謝って、身請話を白紙に戻してもらうんだっ……て…… えっ……? 今、なんて───────? 「何もかも捨てて、俺に付いてこれるか?」 何もかもって…それって…… 遊女である私と逃げるということは、花月だって全部捨てることになる。 お金は取られて無一文になってしまったけれど、花月なら絵師としていくらでもやっていけるのに…… 「芝居小屋から男もんのカツラを借りてくる。男装してあの門を抜けよう。上手くやればバレやしない。」 迷いなど一切ない真っ直ぐな目で私を見た。 ……花月、本気なんだ…… 小さな頃から当たり前に遊女の世界を目にしてきた。 客と遊女が重ねる逢瀬は一晩だけの絵空事だ。嘘だと分かっていても愛を語らい、体を求め合う…… これが吉原に生きる私達にとっての生き様なのだ。 そんな遊女のことを、ここまで愛してくれる男がいるだなんて…… 「私は……そんなみすぼらしい暮らし、冗談じゃないから。」 花月さえいれば何も怖くない。物がなかろうが何日空腹が続こうが平気だ。 今直ぐにでも、このまま私を連れて逃げて欲しい。 「言ったでしょ?私はこの吉原を引っ張っていく花魁になるって。誰もが羨むような豪華な暮らしをするのが夢なの。」 でも無理だ。もうこれ以上……… 「これからは別の客も取るから、花月もこれからは客の一人として私を買いに来て。」 ………花月を巻き込めない──────…… 重く、長い沈黙のあとに花月が口を開いた。 「小春、それは本音か?」 顔を見たらきっと泣いてしまう…… 花月の愛は本物だ。 だからこそ、私はそれに甘えちゃいけないんだ。 横を向いてツンと黙ったままの私に花月が苛立ちながら立ち上がった。 「(はらわた)が煮えくり返るほどムカついたのは初めてだ。」 花月は廊下を踏み抜くほどの音を立てて去っていった。 私の顔なんて二度と見たくないだろう…… でもそれでいい。 彼はもう、ここに来ちゃいけない。
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