152人が本棚に入れています
本棚に追加
仲之町通りに出ると先程とは状況が一変していた。
「くそっ…これ以上はとてもじゃないけど進めねえ!!」
大門へと通じる通りが火の海になっていたのである。
無理に渡ろうとした人が道の途中で点々と、火だるまになって果てていた。
どうしよう…この吉原で大門以外の出入り口はないのに……
「別の道から逃げるぞ!!」
まさかあのお歯黒どぶを泳いで渡る気なのだろうか?
私は泳げない。
着物に水をふくめば重さは倍になる……私を担いで向こう岸までたどり着くなんて不可能だ。
「花月だけで逃げて。私はもういい……」
「勝手に諦めてんじゃねえ!!誰が置いてくかっ!」
花月は私を一旦地面に下ろすと井戸の水を頭から被り、濡れた羽織を脱いで私に被せた。
いたるところで炎が吹き上がる中を必死で掻い潜り、熱風で鉄板のように熱くなった塀をなんとかよじ登ると、真っ暗なお歯黒どぶが行く手をはばんだ。
水というより泥だ。
入った途端に為す術もなく足を取られ、底なし沼のようにズブズブと沈んで行くだろう。
所々に泡が浮かんできているのは、きっと渡りきれなくて力尽きた人の亡骸が水底にあるんだ……
わずか5間先の対岸がとてつもなく遠くに思えた。
後ろからはどんどん火が迫ってきている。
残された選択は……焼け死ぬか、溺れ死ぬかだ………
「……小春。」
花月が私の手を強く握りしめてきた。
見上げると、花月は目を細めて静かに微笑んだ。
花月が何を考えているのか……
──────……葵ちゃん、ごめんね………
今なら私も、葵ちゃんの気持ちが分かってあげられる……
葵ちゃんは彼を本当に愛していたからこそ、永遠に添い遂げることを選んだんだね。
私も花月の手を強く握り返し、笑顔でうなずいた。
死の間際だというのに、気分はさざ波ひとつない湖畔のように澄んでいた。
怖くはない。花月と一緒なら────────……
「花月先生!!!」
飛び込もうとした時、提灯を振り回す眼鏡の青年が対岸にいるのに気付いた。
一生懸命に指差す方を見ると、お歯黒どぶの上に何かが横たわっているのが微かに見えた。
「あれは……橋か………?」
緊急時や亡くなった遊女を出棺する時にだけ架かる跳ね橋が、吉原のどこかにあると聞いたことはあった。
恐らくその跳ね橋が、吉原と向こう岸を繋いでいたのである。
他の門下生達だろうか。橋の近くには十人ほどの人影がせんせーいっと言いながらこちらに向かって大きく手を振っているのが見えた。
「あいつら……やるじゃねえか。」
助…かったんだ……
そう思ったら一気に力が抜けて地面にへたりこんでしまった。
橋なんて欠片も見たことがなかったし、昔の遊女が考えた妄想なのだと思っていた……
私は花月に支えられ、橋を無事に渡って吉原から脱出した。
眠らない町“不夜城”と呼ばれた要塞のような吉原が、真っ赤に輝き崩落していく……
何本も上がる火柱が、悲しき遊女達を喰らい尽くしていく龍のように見えた──────………
最初のコメントを投稿しよう!