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この吉原は四方を塀と堀で囲まれている。
特に堀はお歯黒どぶと呼ばれ、5間(9m)もの幅があって汚水が流れており、遊女たちの逃亡阻止という役割もはたしていた。
高い塀の上にはたくさんの見物人がよじ登って大騒ぎしていた。
私も上にいる人に引っ張り上げてもらって塀の上からお歯黒どぶを眺めると、稲本屋の楼主が二つの死体を前にして項垂れているのが見えた。
葵ちゃんだったのだ───────……
お互いの手足を紐で縛って入水したらしい。
相手の男は同じ見世で働く若い衆だった。
汚水にまみれて赤黒く膨れ上がった葵ちゃんは、見るも無残な姿となっていた。
「あれは葵とやらだったのか?」
お園さんを稲本屋へと送り届けた男が、息を切らせながら塀をよじ登り尋ねてきた。
吉原には破ってはならない掟があった。
盗みや脱走はもちろん、この心中も大罪である。
「彼女は好きな男と添い遂げることを選んだんだな。」
男の言葉が隙間風のように体をすり抜けた。
掟を破った者の遺骸は素裸にされ、粗末なむしろに包まれて吉原にある浄閑寺に投げ込まれる……
そこに人間の尊厳なんてものはない。犬や猫のような扱いを受けるのだ。
葵ちゃんだってそんなこと…分かってたよね?
なのになんでっ………
「おい、大丈夫か?体が震えてんぞ?」
「……バッカじゃないの……」
私の口から漏れ出た言葉に、驚いた男が目を見開き見つめてきた。
フツフツと怒りが込み上げてくる……
葵ちゃんはこんなことをするために、今まで頑張ってきたんじゃないでしょ?!
「一緒に死んだところで、幸せになんかなれるはずないじゃない!!」
怒りの収まらない私は塀から飛び降りて吉原の街を切るように突っ走った。
葵ちゃんはいつもニコニコと笑っていた。
よくブウたれてしかめっ面ばかりしていた私に、そんな怖い顔してたら幸せまで逃げていくよってたしなめてくれた。
同い年なのにしっかり者で優しくて…私はそんな葵ちゃんが大好きだった。
花魁になっても…ずっと友達でいようねって約束してたのにっ……
気付けば大門の前まで来ていた。
私達遊女はあの門を自由に出入りすることは許されない。
身請なんて話がくるのはごく一部の限られた遊女だけだ。
あの門をくぐりたければ、年季を無事に務めるか死ぬかだ。
あの門も…一緒に出ようねって……
指切りげんまん、約束したのにっ───────……
なのになんで自分から死ぬのよっ……
……葵ちゃん……
バカだ……
大バカだ───────っ!!!
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