前編

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前編

 十九歳だった私がこのヴァレンシス伯爵家(当時は男爵家だった)で執事見習いとして働きだして、気が付けば早いもので十年もの時間(とき)が流れていた。  仕事内容としては決して楽なものではなく、見習いと言いながら正規のそれと変わらず、安い給金に不満を覚えたものだ。それでも頑張ってこられたのは坊ちゃんの存在があったからに他ならない。  時折視界の端に映る天使のような坊ちゃん、まるでかくれんぼのように綺麗な金色に輝く頭が見えていたり、小さく可愛いお尻が見えていたりと、その愛らしさに疲れなんかどこかへ行ってしまう気がした。  しかし、と思う。確か私が雇われる際ご紹介いただいた中にあのようにお小さい方はいらっしゃらなかったはず、ご病気でもされていたのだろうか?  何日過ぎても坊ちゃんにご挨拶する事なく、他の使用人たちの様子もおかしいと感じた。坊ちゃんの事を誰も見えていないかのように振舞って見えたからだ。  直属の上司である執事長に坊ちゃんの事を訊ねると、坊ちゃんはこの家の実のお子様でありながら、その存在は空気のようなものだと言う。  どうして? と思うが、その問いに一番の古株である執事長でも正確に答えられないのだから他に誰も知る者はいないだろう。  ただ、奥様が出て行かれた事に関係しているとだけ教えられた。  理由はどうであれ主である坊ちゃんのお父様がそう扱っていらっしゃるのだから我々は黙って従わなくてはいけない。  だが、私はそうはしたくなかった。訊けば奥様が出て行かれたのは三年程前の事で当時坊ちゃんは五歳、そんな幼子に何の責任があると言うのだろう。  私はどうしても坊ちゃんを空気のように扱う事なんてしたくなかった。  だから私は小言を言われようが仕事を増やされようができるだけ坊ちゃんに寄り添い続け、『見習い』が取れ正式な執事となった今もそれは変わらない。  最初は坊ちゃんに対する同情みたいなものだったと思う、それがいつの間にかその感情の名は変わってしまったが、それに気づかないフリをした。  何があっても坊ちゃんと執事()の関係が変わる事はない。  だから私は執事として坊ちゃんの幸せを願う。  あの幼かった坊ちゃんが本日レビュース侯爵家へと嫁がれる。  坊ちゃんは御年十八歳。そしてお相手の方は御年九十歳とかなりご高齢な方だ。立派な政略結婚である。  そして坊ちゃんがご高齢のお相手の元へ嫁ぐのは今回が初めてではない。坊ちゃんが十六歳になられてすぐに始まって、今回で十回目になる。  ヴァレンシス家は元々は男爵位で、坊ちゃんを高位貴族とのご結婚を繰り返させる事で今や伯爵位となっている。  つまり坊ちゃんのお父様であるエルビス・ドノワ・ヴァレンシス伯爵様の出世の為に坊ちゃんはこんな事を繰り返しておられるのだ。  私は全てを分かっていながら何度もなんども坊ちゃんを送り出してきた。  あれ程坊ちゃんの幸せだけを願っていたはずなのに私は何て罪深い人間なのだ、他の者と何も変わりはしない。  いや、もっと質が悪いかもしれない――。  以前何度目かのご結婚の際、思い切って坊ちゃんにお訊ねしたことがあった。  「ご結婚……お嫌ではないのですか?」と。  その問いに答える事なく坊ちゃんは悲しそうに微笑まれただけだった。  私は自分がバカな質問をしてしまったと今でも後悔している。  嫌じゃないわけがないじゃないか。  十六、七の世間的には成人しているとはいえ、穢れを知らない坊ちゃんが家のために見ず知らずの年老いた男の元へ嫁がされるのだ。短い期間に何度もなんども――。  いくら貴族社会で政略結婚が珍しくはないと言っても、相手が高齢であるから嫁いで二、三か月後には他界され実家へと戻される。  そしてまた他の高齢の高位貴族の元へ嫁がされる事の繰り返し。  世間では口さがない者たちが坊ちゃんの名誉を酷く傷つける事を言っているのを耳にする。  口に出すのも悍ましい――っ! 坊ちゃんがどんな想いでいるのか知らないくせに勝手な事ばかり言うっ!  ――怒りに任せて磨いていたグラスを床に叩きつけたくなったがすんでのところで止まった。  何も言えず坊ちゃんを送り出すしかない私に怒る権利などない――。  真っ白の礼服に身を包み頭からは綺麗な刺繍のほどこされたヴェールを被っている坊ちゃん。ヴェールの中はあまり見えないので坊ちゃんの表情は分からない。 「――――坊ちゃん、お綺麗でございます……」  坊ちゃんを頭からすっぽりと覆ったヴェールが僅かに揺らいだように見えた。あの時のように悲しそうに微笑んでおられるのだろうか――。  私はまた言葉を間違えてしまったのだろうか、だけどこの想いを少しでもお伝えしたかった――最後だから。  坊ちゃんの乗る馬車を見送りながら思う。  もうここにはいられない。  きっと坊ちゃんはまた数か月もすれば戻られるだろう。  だけどまたどこかへ嫁がれるはずだ。  使用人である私はそれを黙って見送るだけ――。  その日私は仕事を辞め、ヴァレンシス家を去った。
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