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私は三度、何かを描きだそうとしているのかw
つい最近でもないですが、2012年頃、皆さんは、アセンション、もしくは高次元化 だとかいう言葉を、耳に、目にした事はないですか?他に、世界の終わりだなんて煽る方々もいらっしゃった様に思います。
どうも世界が終わるなんて風説の流布は今にはじまった事でもなく、かつては、親鸞聖人がご存命の頃からあった様なんですが(末法思想)、ノストラダムスの大予言が、ある意味、大コケにコケて笑、ミレニアムも無事、過ぎ去り、相変わらず、なんだかヤバくて、きな臭い浮世であったりもしますが、人類を頂点とした現代社会は辛うじて、もってます。
でも、皆、心のどこかで、”このままいったら、うちらやばいかも・・・”って、潜在した意識の中で思っているのかもしれないですねぇ。ツイッターで、SFが流行らなくなったのは、ひと昔前なら、輝かしい未来が待っていると思っていたものが、実は、あまり夢もへったくれもない現実しか残ってない、みたいな事しか描けなくなってしまって、それの方が、説得力をもってしまったからだ云々みたいな主旨の文言がありました。僕は、SFを書いたものの、これ、結構、然りかも、なんて思ったものです。が、結局、2012年人類滅亡説も、マヤ文明のカレンダーでいうところの1年という概念が終わる、っていう事にすぎないのを拡大解釈しただけってオチでした。そして、既に、ここで話してみたい事とは本題が強烈にずれている事は言っておきたいわけでして、僕としては、未だ、興味がそそられているのは、「高次元化」もしくは、「高次元」とよばれるものについてなんです。
昨今のブームである異世界とはまた違った次元で、何がしかの世界があって、そこには生命体、所謂、高次元生命体なる存在もあるだろう、とは思います。その出所が、宇宙空間の遥か向こうなのか、ブラックホールの先なのかは計り知れませんが、きっと、そういった存在が、僕らには「神」として見えたのだろうとも。で、この辺りの事は、一番、最初に手掛けたエヴァンゲリオンの二次小説の中で、展開させてもみましたが、作品内でも、実際にエピソードとして絡ませた、あの有名な「ファティマ第三の予言」の事件がフェイクであったとしても、存在として有りうると考えているのが僕の持論です。
ただ、その高次元化が、2012年、この世界で起きる、という考えは、”え?なぜに地球だけ?”なんて、普通に、なんともいえない笑みがこぼれるというものでした。そして、結局、何にも起こらずにあれから既に8年も経過しているわけですが、高次元化というのはいくらなんでも大げさであるにしろ、ふと、思ったのが、人類って生き物が、今までにどれだけ進化したんだろう、って事はよぎってるんですよね。いろいろ、ざっくりと見ていったんですけど、ホモ・サピエンスとなってからの僕らだけでも、累計で、少なくとも45万年の歴史を有しています。アフリカ起源説に則るならば、僕らはそこから旅立ち白人となり、やがてはアジア人になっていったのかもしれません。恐竜と一味違ったのは、僕らは、物を作れるという事です。確かに、僕らが作り出すものは、便利なものばかりになる一方です。正に、地球の王として君臨足りうるだけの「技術力」、でしょう。
だけど、ヒト個体、としてはどうでしょうか?裸一貫で野生動物と向き合ってはひとたまりもないのは、太古から、むしろ延々と相変わらずのはずです。だから、物を作り出す事に長けていったのであろうし、ここまで、自然と切り離された、自分たちのみの確固たる世界すらも作りだした僕らにとっては、個体自体の進化は必要ない、とDNAなりなんなりが判断しているのかもしれません。
この先もヒトは、自身は変えず、言わば、「周囲を作り続ける」事で歴史を成していくのかもしれません。そして、いつか、地球のみにいる事が叶わなくなるか、飽き足らなくなるかで、この星の外へと、歴史を編んでいく事でしょう。もし「進化」が起こるという事があるならば、その時なのかもしれません。
地球人という視点でのみで見れば、宇宙は、最後に残された自然 です。そして、その自然は、それまで僕らが触れてきた大地のものらとは明らかに次元の異なる存在として、そこに存在している様な気がしてならないのです。この自然を前にした時、果たして、僕らは、それまでの様に、ただただ、作り続けるのみのリカバリーだけで、全てが済ませられるのか、と思えてならないのです。
どちらが黒船のペリーとなるのかは未知数ですが、例えば、矢張、異星出身の何がしかの生命体、文化、文明などと接触していく過程で、意識的、無意識的かは関わらず、強烈な変化が人類にもたらされる気すらします。それが、言わば、「太陽の帝国」の中でも触れた「超能力」の類であると思えてならないのです。
当時をリアルタイムでは知らない世代なので、スプーン曲げだとか云々に関しては、確か、動画も見た気がするけど、あれはセンセーショナルな事でもなんでもなくて、単なる金属への摩耗って事で片づけられる案件と思えてしまう方なのですが、きっと僕らの中に眠る未来の力って、そんな次元をはるかに凌駕した、言わば映画「AKIRA」で言うところの、テツオによる、「かねだあああああああああ!!」なる絶叫と共に、地面が吹っ飛ぶくらい壮大であると思えてならないのです。相手の心は容易く読み取れてしまうだろうし、手に触れなくてもドッチボール遊びができて当たり前かもしれません。
矢張、銀河系一つとっても、これだけの星の数の中に、生命体が僕らだけというのは非常に考え辛いのです。そして、例えば、シリナ達の様に、持ち前の類まれなる超能力を、まるで何がしかのファンタジー小説のキャラクター達の様に、それこそ異世界ものによくある世界の様に、「魔法」という考え、概念でとらえ、暮らしている人々もいるかもしれません。そんな風に、「魔法」が「魔法」として当たり前に生活の中にあるわけですから、彼らの暮らしぶり自体の水準は、僕らが、遥か太古に置き忘れてきたような世界観を、延々と保ち続けているのかもしれません。宇宙船など見たら、神の使いなんて思ってしまうかもしれません。
だから、僕らは、未だ、彼らとは出会えていないのです。
結局、どこの国の神様も、人に近い形を有しているからってのもあるんですが、未来人が、そこまで変わり果てたものとなったなら、それって、もう、この世の者とは言い難いですよねぇ。っていうか、ホモ・サピエンスという形容のままでいいのか、って気にすらなります。ほぼ、地球のみに生息しているわけでもないから、最早、地球人、とは言えないのかもしれません。正に、宇宙人(笑
さて、「太陽の帝国」シリーズも完結させたつもりだったんです(笑)新作のネタも色々あります。で、これは、処女作であるエヴァンゲリオンの二次小説兼一部オリジナルの中でもやったし、「太陽の帝国」の中でも描写はしたんですが、”もっと、なんか、こう、超能力対決、みたいなのやりたい・・・”って、「やり足りてない感」はあったんですよねぇ。全く新作!って案も、まだ、自分の中では死んではいません。ただ、自分が、言わば「超能力」ってものについて、あれこれ思う所があった時、それを表すなら「太陽の帝国」っていう世界観は、非常に、表しやすいのかもしれない、なんて、揺れ動いている感じです笑。読んでる人側として、あまり長くなっちゃうと、何がなんだかわからなくなるってのは、結構、経験済みですから、も少し色々、煮詰めてはみますけどねー。やるからには、太陽の帝国のタケル編と、カムイ、モモ編がそうであった様に、”あれ?話変わった?続編じゃないの?”みたいに、思わせるような仕掛けはしたいんですけどね~。
悩ましい笑。(※これを書いた後の現状、新作って方に気持ちは動きはじめてますw)
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