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エヌ氏は、百貨店の入り口から広い階段を上り、市電の駅に向かった。
ビルの二階に入っているプラットホームに入ってきたのは、滅多に乗ることがない車両だった。
車両の頭の下部がクリーム色の球形になっていて、まるで下ぶくれの顔のようでもあり、卵を縦に立てたように見える。
これに出くわすことは珍しい。とてもSF的、未来的なデザインで、いつもこの車両に乗るときは、柄にもなく、年がいもなく、わくわくする。
エヌ氏はいそいそと乗り込んだ。
渋谷を出ると、すぐに線路は路面と同じ高さになり、自動車と並走して先へ進んでいく。
灯りのついた建物が次々と後ろへ流れていく車窓をぼんやりと眺めているうちに、気づかないまま十数駅が過ぎていた。
エヌ氏の最寄りの駅は、路面よりやや高く、敷石も敷き詰められていて、コンクリ製の柵と鉄条網も張られ、しっかりした造りになっている。
エヌ氏は、プラットホームに降りると、足早に駅のすぐそばにある自分の家へ向かった。
ガラスのはまった格子戸をがらがらと開けると、妻が顔を出した。
「おかえりなさい」
廊下の襖をがらりと開けて寝室に入る。
少し酒臭いエヌ氏の息を気にする風でもなく、妻は着替えを手伝ってくれた。
蒼く染められた麻の浴衣を羽織って、濃い茶色の兵児帯をしめたエヌ氏は、部屋の奥を眺めやった。
畳の上に布団が敷かれ、ふたりの子どもがすやすやと寝息をたてている。
幼児の兄と、まだ赤ん坊の弟だ。
エヌ氏は、ブリーフケースを探って本を取り出した。
「お前にこの本が読めるとは思えないけどなあ」
長いまつ毛をぴくぴく震わせながら口を開けている兄に向かって、エヌ氏は起こさないようにそっと声をかけた。
いつも寝ざめが悪い兄を起こしてしまうと、大声で泣きわめき出し、そのたびに妻にどやされる。
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