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エヌ氏は話にのってくる様子もなく、本から目を離さずに、ママから渡されたグラスの中身を喉に注ぎ込む。
こんな荒唐無稽な話、どこで聞いたんだっけ……と、ママは、スピリッツの瓶を棚に戻しながら、ぶつぶつとつぶやいている。
「オリンピックの盛り上がりが終わったと思ったら、そこからまた世の中全体が目まぐるしく変わっていくねえ……」
エヌ氏の方にふりむいて、同意を求める。
「ん? ああ、そうだね。ついこの間まで、大変な盛り上がりだったなあ」
エヌ氏は、ママからこれだけ話しかけられても、まだじっと本を読み続ける。
「……そうそう、さっきの円盤の話も、お客さんから沢山聞かされたんだった」
ママは、裏の薄暗いボックス席で、分厚い紙の束を、顔がぶつかるくらいに近づけてじっと睨んでいる細面の男に目をやった。
「あそこにいるエフさんからね」
エヌ氏は、本から顔を上げ、横目でボックス席の男の様子をうかがった。男は、こちらで話題に上っていることには気づいていないようだ。
「エフ、エフ……」
ふいに、足置きに立てかけていた革のブリーフケースをがばりと取り出して、中をあさりはじめた。
「これだ……」
取り出した本の表紙には、でかでかと「SF」と書いてある。
エヌ氏はぱらぱらと本をめくり、巻末辺りに目を止めて、カウンターごしにママにそのページを見せる。
「間違いない」
目を輝かせて尋ねてきた。
「あの人は、エイチ書房の人だろう?」
ママは不機嫌そうに顔をそらす。
「あまりそういうことは言いたくないのよね。最近よく言うじゃない。『プライバシー』って」
ママはまた口に手をあてて、また「あらやだ」と言う。癖になっているらしい。
「口をすべらせて名前を言ってしまった時点で『プライバシーの侵害』かしら……」
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