水没する傷の海

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水没する傷の海

時計の音が静かに響く。 俺はピアノの前に座り、音楽室の扉を眺めていた。もう十五分は経っただろうか。 歌唱練習がいつまで経っても始められない。 いつも早めに来てるのに、どうしたんだろう。 施設から人がいなくなっても、規則通りの生活を送っていた。 現実を手放したくなかったのと怖かったからだ。 すべてが壊されても、居場所を失いたくなかった。 俺しかいなかったら話は変わっていただろうけど、生き残りはもう一人いた。 自分のことで精いっぱいで、名前なんて覚えていなかった。 待ちきれず、俺は部屋を飛び出した。 自分の部屋や食堂に行っても誰もいなかった。後は保健室くらいだろうか。 雨に打たれた傷を癒す場所であり、恐怖から逃げられる唯一の場所だった。 空きベッドが並んでおり、カーテンがひとつだけ閉められていた。 音を立てないようにカーテンを開くと、青いトカゲのぬいぐるみを抱きしめて、寝息を立てている奴がいた。 昼ごはんを食べたあと、ここに来て寝落ちた感じかな。 ベッドに座り、自然に起きるのを待つ。数分後、ハッと目を開けた。 「やべぇ、寝過ごした!」 「いいよ、今日くらいは休もう」 慌てて起きあがろうとするのを手で制した。 「そんだけ寝てたってことは、よっぽど疲れてんだろ?  ずっと練習続きだったし、落ち着ける暇もなかったからな」 何せ施設に二人きりだ。 いつものように、何事もなかったかのように過ごしていた。 それでも、世界は目まぐるしく変わる。 俺たちは暗闇の中に取り残された。とうとう限界が来たのだろう。 「……何なんだよ」 「ん?」 低い声で呟いた。 「ビビりのクセして音楽のこととなると止まらないし、何なんだよ、お前。 鍵盤の魔法だってそうだ。何でお前なんかが……」 目を大きく見開いて、俺の腕を掴む。 何か言おうとして、口を開閉する。 そういうことを言いたいわけじゃなかったらしい。 「何度も言われたな、それも」 俺は諦めたように首を振った。 人のいる前でも、影の中でも、何度も言われていた。 『何でこんな奴が選ばれたんだ?』 神様は才能を持つ者を見極める眼を持っていて、常に見定めている。 神の能力は魔法使いにとっての憧れだ。 少なくとも、こんな奴が選ばれるとは思わなかったのだろう。 何も言わない俺を強く揺さぶった。 「そんな才能持ってんのに! 天才だって言われてて! お前のピアノ聞けばあのロボットだって改心するかもって! みんなから期待されてたのに、なんで何もしなかったんだ!」 「……俺に何か期待してたのかよ?」 「してたよ! しちゃ悪いか! あの虹で何かしてくれるんじゃないかって! どうにかしてくれるんじゃないかって! ずっと思ってたのに……」 手の上に涙が落ちる。陰口と同じくらい、期待が重くのしかかった。 みんなの顔が怖くて、逃げていた。 無力感がずっと付きまとっていた。 「ごめんな、本当に」 音楽は好きだったけど、雨に怯える自分が嫌いだった。 ピアノをくれた音楽の神様は厳しい性格で、才能ある者にしか虹色の鍵盤を託さないらしい。認めてくれたのは嬉しいけど、もったいないと思っていた。 先生からも魔法を教わったけど、役に立った試しがない。 それはただ、俺が雨を嫌って外で弾かなかっただけに過ぎない。 すべてを打ち付ける音が聞こえただけで、頭の中が真っ白になって、鍵盤は消えてしまう。 神様曰く、『何のための楽器だと思っておる』とのことだ。 先生からも、もっと自信を持てと何度も言われた。 「今からじゃ、遅すぎるか」 涙の海に飲まれて沈んでいく。俺は浮きにすらなれないのか。 天井を仰ぐ。明るい水面まで遠く感じる。 先が見通せない暗闇の中に、取り残されている。 「ンなわけねーだろ。何のための楽器だと思ってんだ。 ふざけんじゃねえ……雨くらい克服しろっての」 口調の割に頭を撫でる手つきは優しかった。 目の前にいるもう一人はまるで諦めていない。 「こんな雨とっとと晴らして、虹を出してくれよ。 もうお前くらいしかいないんだよ、あんな綺麗なもん出せるのは」 あの七色を出せるのは、この世界に俺しかいない。神様もそう言っていた。 鍵盤を弾く魔法使いは他にいても、その技術は拙く、はるかに劣るらしい。 「……」 肩に頭を預ける。ようやく光が見えた。 見たいと言ってくれる人がいる限り、ひとりぼっちじゃない。 じわりとにじんだ涙を受け止めてくれた。
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