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 どのくらい眠っていただろう。  物音に目が覚めた時は、部屋はすっかり暗くなっていた。  ドアの近くに電灯のスイッチがあった筈だと思い、ベッドから降りる。  電灯をつけた時、部屋のドアが開いた。  さっと後ずさって、身構える。  開いたドアから覗いたのはやはり高杉だった。 「やあ、目が覚めたかい」  不健康そうな顔色で、気味悪い笑みを浮かべている。 「おい、俺をどうするつもりだよ。こんな事してただで済むと思ってんのか?」  暮羽は恐怖を押し殺し、低い声で言った。  高杉は楽しげに声を抑えて笑う。 「君はここでずっと、僕と暮らすんだよ。死ぬまでね」 「あんたと死ぬまで暮らすくらいなら、今すぐ死んだほうがマシだ!」  暮羽は高杉を睨んだ。 「どうせ逃げられないよ」  高杉は相変わらず笑みを浮かべている。  そして暮羽に近付いて来る。 「諦めて僕のものになれば、もう少し鎖を長くしてあげるよ」  そう言って高杉は暮羽の首筋に手をやった。  暮羽の体がびくっと震える。  全身に悪寒が走った。鳥肌が立ってくるのがわかる。 「さ、触るなっ!」  暮羽は高杉の手を払い退けた。  護身術で習った通り、高杉の腹部に肘を打ち込む。 「うっ」  油断していた高杉はまともにそれを食らって倒れ込んだ。  そこへもう一度蹴りを入れると、暮羽は部屋を飛び出した。  外まで逃げる事は不可能だがバスルームに逃げ込むくらいは出来るだろう。  ダイニングで高杉のバッグを見つけた。  おそらく、帰って来た時にここに置いたのだろう。  急いでバッグの中をあさると、目当ての携帯電話が見つかった。 「あった!」  幸い、ロックはかかっていなかった。  警察を呼ぶか、他の誰かに連絡するか。  考えている暇はない。  唯一暗記していた広瀬の番号を急いで押す。  しかし広瀬の携帯からは、留守電のメッセージが流れて来る。 「俺です、雪村です!高杉のマンションにっ」  監禁されている、と言おうとしたところで携帯電話を奪われた。 「ダメだよ、人なんか呼んだら」  そう言って高杉は携帯の電源を切った。  かなり手加減なしで肘打ちした筈なのに意外と平気そうだ。  悔しそうに高杉を睨む。  そして再びベッドのある部屋に戻った。  乱暴にドアを閉めるものの、もちろん鍵はついていない。 「くそっ」  暮羽はベッドに倒れ込んだ。  やはり警察に電話した方が良かったのかも知れない、と少し後悔した。  しかし、広瀬が留守電のメッセージを聞いて、何か察してくれたら警察に届けてくれるだろう。  当面の問題は、どうやってここから出るかよりも、どうやってこの鎖を外すかだ。  鎖、あるいは首輪さえ外せれば、あとは高杉の隙をついて何とか逃げ出せるのではないだろうか。  しかし鎖も首輪も頑丈だった。  今のところ、高杉が入ってくる気配はない。  暮羽は更に鎖を調べた。  ベッド柵のパイプに取り付けてある。  力一杯引っ張ってみるが、外すのは無理そうだった。  もう、どうあがいても無駄だという絶望感に襲われる。  やがて、高杉が食事を運んで来た。 「夕食だよ」  高杉はそう言って、ベッドの上にトレイを置く。  暮羽はそれを横目で見るが、ベッドの隅で膝を抱えたまま動こうとはしなかった。 「食べないと体壊すよ」  高杉はそう言い残して、部屋を出て行った。  まだ今すぐどうこうという気はないのかも知れない。  それはそうだろう。  暮羽がここにいる以上、高杉が焦る必要はないのだ。  籠の中の鳥と同じだ。  今、暮羽の全ては高杉に支配されてしまっている。  暮羽はトレイを自分の側に引き寄せた。  高杉の用意した物など食べたくもなかったが、食べない訳にもいかなかった。  食べ終えた後、ベッドの上に大の字になる。  高杉が来たらどう対応しようかと考える。  これでは安心して眠る事もできない。  あまり細かい事を気にする性格ではなかったが、男で、しかも鳥肌が立つほど嫌いな高杉にだけは体を許す訳にはいかないと思った。  夜中、やはり高杉が来た。  暮羽は必死で抵抗する。  しかしどんなに抵抗しても、高杉はびくともしなかった。  運動もほとんどしない暮羽はもともと体力がある方ではない。  人並み程度にはあると思うが、持久力はない。  すぐに呼吸が乱れてきた。  このままやられてたまるか。  暮羽は考えて、体の力を抜いた。  抵抗をやめた暮羽を見て、高杉はにやりと笑う。 「怖がらなくていいよ。優しくしてあげるから」  嬉しそうにそう言って高杉は暮羽の服を脱がせようとした。  その隙をついて、暮羽は高杉に蹴りを入れる。 「うぐっ」  高杉がひるんだ隙にベッドから下りて逃げ出した。  ダイニングに出ると、テーブルの上にガラスのコップが置いてあるのが見えた。  部屋から出てくる高杉に向けて投げつける。  高杉は辛うじてそれを避けた。  落ちたコップが割れる。  割れた破片を見て、暮羽にある考えが浮かんだ。  急いで尖った破片のひとつを拾うと、自分の首筋に当てる。 「何をするつもりだい⋯⋯」 「俺に手を出したら、自殺してやるからな」  暮羽は高杉を睨んだ。  それを見て高杉は引き下がるしかなかった。 「仕方ないね。今日はやめておくから、それは捨てるんだ」 「嫌だね。これは自分の身を守るために持っておく」  暮羽はそう言うと、破片を持ったまま部屋に引きこもった。  ベッドの上に身を投げ出す。  もちろん死ぬ気はない。  かといって、高杉を殺す勇気もない。  何とか逃げ出せないかと考えてみたが、良いアイデアは浮かばなかった。  だが時間はまだたっぷりある。大学は夏休みに入っているのだ。  翌日。  高杉はどこかへ出かけたらしく、暮羽が目覚めた時にはもういなかった。  ダイニングのテーブルの上に朝食が用意してある。  食欲はなかったが無理をして食べた。  そして、今のうちに風呂に入る事にする。  鎖がぎりぎりなので湯船に浸かるのは無理だったが、シャワーは使う事ができた。  しかし足が鎖に繋がれているため完全に服を脱ぐ事ができず、濡らさないように苦労して体を洗った。  そしてどうにかシャワーを浴びてダイニングに戻った。  テレビを見る気にもなれない。  仕方なく部屋に戻り、コップの破片に目をやった。  鋭く尖って、まるでナイフのようだ。 「もしかしたら⋯⋯」  暮羽はその破片で、足首についている首輪を切ろうと試みた。  幸い、首輪は皮製だ。  切って切れない事はないだろう。 「気休めにしかならないけど、やらないよりはマシ⋯⋯か」  しかし思いの他やりにくく、暮羽は何度も自分の指や足首を傷つけた。  血液が首輪に付着する。  それでも暮羽はやめようとしなかった。  しばらくやっていると、インターホンの音がした。 「誰か来たのかな」  高杉がインターホンを鳴らす筈はない。  ダイニングに出てみた。  もしかしたら広瀬か、警察かも知れないという希望が湧いた。  違っていても、助けを求めている事を気付かせる事ができるかも知れない。 「おーいっ!!聞こえるかーっ!?」  ダイニングから玄関に向かって大声で叫んでみるが、声は届いていないようだった。  インターホンは鳴り続けている。  玄関まではダイニングのドアに隔たれているせいか、どんなに大声を出しても無駄だった。  やがてインターホンの音はしなくなった。 「くそっ」  唇を噛む。  せっかくのチャンスを逃してしまった。  仕方ないので再び部屋に戻る。  そしてコップの破片を手に取ると作業を再開した。  高杉は昼過ぎに戻って来た。 「昼ご飯だよ」  高杉はトレイを持って部屋に入って来る。  暮羽はそれを受け取ると、すぐに高杉を追い出した。  食べ終えて部屋を出ると、高杉の姿はなかった。  またどこかへ出かけたようだ。  少し安心した暮羽はベッドに横になった。  首輪さえ外れれば、きっとうまく逃げられる。  いつしか、暮羽の中から絶望感は消えていた。  早く逃げ出して、広瀬に会いたい。  広瀬だけではない。  武田も品川も、きっと心配しているだろう。  しかし最初に浮かんだのは広瀬の顔だった。  爽やかで、穏やかな笑みをたたえた顔。  早く広瀬の笑顔を見たかった。  その日の夜も、高杉は部屋にやって来た。  しつこく迫ってくる。  暮羽はコップの破片を片手に必死で抵抗した。 「言っとくけど、あんたがやってる事は立派な犯罪だぞ!?」 「どうして?好きな人とずっと一緒に居たいのは誰だって同じだろう?」  高杉は首を傾げた。  何故自分が犯罪者呼ばわりされるのか理解できていない様子だ。 「相手の意志があるだろ!俺はあんたなんか嫌いなんだよ!」  暮羽は怒りに任せて怒鳴った。 「どうして僕の気持ちをわかってくれないんだい」  高杉は困ったような笑いを浮かべている。  暮羽は無性に腹が立った。  何を言ってもこの男は理解しない。  高杉の中にあるのは自分に都合の良い事だけで、暮羽の意志は存在しないのだろう。 「あんたの気持ちなんてわかりたくもないんだよ。俺はあんたが嫌いなんだ」 「わかってくれないなら、無理やりにでもわからせてあげるよ」  高杉はそう言ってにやりと笑った。 「や、やめろよっ!」  暮羽は焦って逃げようとするが、すぐに捕まってしまう。  必死で抵抗するがやはり高杉はびくともしない。 「はな、せっ」  高杉の体を押し退けようと腕を突っ張る。  しかし高杉はやめようとしない。  暮羽の体を撫で回そうとする。 「く、そっ」  暮羽は足を動かした。  何とか体の向きをくるりと変え、肘を後ろに打ち出す。  どうやら命中したらしい。  高杉は呻き声をあげると暮羽から離れた。 「出てけよっ!!」  怒鳴りながら、今度は蹴りを入れる。  ひるんだ高杉はそのままよろよろと部屋を出て行った。  暮羽はほっとしてベッドに座り込んだ。  しばらくすると呼吸も整ってくる。  暮羽は自分に驚いていた。  以前は高杉の姿を見るのも怖かったのに、その高杉に暴力で抵抗するなんて考えた事もなかった。  しかし今、この状況下で自分は高杉に殴る蹴るの暴力で抵抗している。  いざとなったら何でもできるもんだな、と暮羽は笑った。  気を取りなおしてコップの破片を手にする。  皮製の首輪は、何とか半分くらい切れていた。  暮羽は徹夜で続けようと思った。  上手くいけば、明日には逃げられる。  しかし、やがて眠り込んでしまっていた。  翌日。  やはり午前中、高杉はいなかった。  朝食はダイニングに用意してあった。  暮羽はさっさとそれを食べた後、簡単にシャワーを浴びる。  その後、首輪を切る作業に入った。  昼前くらいになって、やっと首輪が外れた。  指も足首も切り傷だらけで血が滲んでいるが、そんな事を気にしている暇はない。 「やった⋯⋯!」  暮羽は急いで部屋を出る。  逃げるなら高杉が戻ってくる前がいい。  ダイニングに出た時だった。  キッチンの奥、玄関の方で物音がした。  高杉が帰って来たのだ。 「くそっ」  暮羽は舌打ちして、部屋に戻った。  高杉が入って来たら隙を見て逃げ出そう、と思いながら。  やがて高杉は部屋に入って来た。  首輪が外れているのがバレないようにタオルケットで隠す。 「頭は冷えたかい?」  高杉はにこやかに訊いてきた。  暮羽はその言葉を聞いて激しい目眩を覚えた。  どこまでもこいつは自分に都合良く考えるんだな、と呆れる。  しかし、そういう風にしか考えられないからこそ、こういう事態になったんだと納得もする。  何も言う気になれず、暮羽は黙ってベッドから降りた。  もう少し冷静に考える事ができたなら、高杉が入浴中に逃げ出すとか、眠ってから逃げ出すとか考える事ができただろうが、今の暮羽にはそこまで考える余裕がなかった。  拘束が解けた以上、一刻も早くここを出たかった。  高杉を無視してダイニングに向かう。 「どこへ行くつもり⋯⋯」  どうやら暮羽の足に首輪がないのに気付いたようだ。 「どこって、自分ちに帰るんだよっ」  暮羽はそう言うとキッチンへ向かって走り出した。  高杉がその後を追う。 「逃げるなんて許さない!」  玄関に出ようとした暮羽の腕を高杉が掴んだ。 「離せよっ!」  暮羽はそれを振り払う。  しかし適わない。  暮羽は引きずられ、キッチンまで連れ戻されてしまった。 「逃がさないよ」 「俺は帰りたいんだよっ!離せよっ!」  後ずさりながら怒鳴る。  そして暮羽はキッチンのシンク下の戸棚を開けると、中から包丁を取り出した。  高杉に包丁を向ける。  しかしもともと刺す気はない。  脅して、高杉が引き下がったら逃げようと思っていた。  その時、不意にインターホンが鳴った。  それに驚き油断してしまったのがいけなかった。  包丁はあっさり奪われてしまう。  形勢は逆転してしまった。 「僕のものにならないなら、君を殺して僕も死ぬよ」  高杉はそう言って暮羽を見つめた。  目が異様にぎらぎらしている。  どうやら冗談ではなさそうだった。  途端、暮羽を恐怖が襲う。  悪寒が走り、鳥肌が立ってきた。  インターホンはまだ鳴り続けている。  しかし高杉はインターホンを無視して暮羽に迫った。 「おい、ちょっとっ」  結果的には玄関から遠ざかってしまうが、暮羽は後ずさる。  殺されてはひとたまりもない。  おそらく高杉は本気だろう。  何かいい考えはないだろうか。  考えている間も高杉はじりじりと迫ってくる。  インターホンはまだ鳴り続けているが、高杉の耳には入っていないようだ。 「さあ、一緒に死のう。怖くないから」 「怖くないワケないだろ!?頭おかしいよあんた!!」  後ずさりながら、必死で怒鳴った。  しかし高杉は包丁を持ったまま近付いて来る。  何とかしないと、このままじゃ殺される。  何かいい方法がある筈だ。  暮羽は必死で考えていた。  頭はパニック寸前だが、何とか冷静になろうと努力する。  しかし中々いい考えは浮かばなかった。  そうする間にも、高杉は迫って来ている。  距離は段々縮んでいた。 「来るなよっ!!死んでもあんたのものになんかならねーよ!!」  大声で怒鳴るが、それは虚しい叫びだった。  高杉は暮羽の叫びも耳に入っていない様子でじりじりとにじり寄って来る。 「じゃあ、やっぱり一緒に死ぬしかないね」 「い、嫌だっ!死にたくないっ!」 「それなら永遠に僕のものになってくれるかい?」  高杉は包丁を下ろし、そう訊いた。  死ぬのは嫌だが、高杉のものになるのも絶対に嫌だ。  しかし、ここで死ぬ訳にはいかない。  選ぶ道はひとつしかなかった。
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