終章

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終章

 ギラ、と目に痛いほどの陽射しが、青い空の一番高いところで輝いていた。  白く――どこまでも白く巨大な雲が鎮座しており、その位置が先ほどからさほど変化ないところを見る限り、上空にあっても風があまり強くは吹いていないらしい。 「あっつっっい!!」  ヒュマシャが、熱さにへばり、ソファに寝そべっていた身体をむくり、と起こし、誰にともなく訴えれば、開けた窓の向こう側でたっぷりとした水を悠々と運ぶ河が見えた。ときおりスーっ、と眼下を横切るのは、ゴンドラと呼ばれる手漕ぎボート。  水の都と称されるこのウェネト共和国を縦横する大水路(カナル・グランデ)の唯一の交通手段であり、何世紀にも亘りこの地を支えてきた公共交通機関である。  トゥルハン帝国を亡命し、ユーフスとナクシディルの故郷であるウェネト共和国に屋敷を与えられ暮らし始めてから早一か月。元首(ドージェ)の客人という国内でも最大級の敬意を以て迎え入れられたこの屋敷は、ウェネト共和国貴族の住むメインストリートの一角にあり、治安も建物も一等のものである。  さらに、どうやらルトフィー自身の私的財産というものは、彼に権利があるため、新政権に奪われるという事もなく、その莫大――らしい――財産で、護衛も使用人も、しっかりと雇えているという悠々自適な生活をここで送っている。  ――はずだったのだが。 (でも……ここまでウェネトが暑いとは思わなかった……っ)  気温自体は、トゥルハン帝国――現チュルク共和国と名を改めた第二の故郷と変わりないらしいが、どうにもここは湿度が高い。というのも、勿論この街中を走る運河のせいで、夏はとにかく湿度が馬鹿みたいに上がるのだ。  湿度自体はトゥルハン帝国の名物・浴場(ハマム)で慣れてはいるものの、それは服を着こんでいない事が条件である。当初は、この国の様式に従ってドレスとやらを着ようと思っていたが、身体にコルセットやら何やらを巻き付け締め上げたあと、(シルク)のぴったりと身体の(ライン)を拾う意匠(デザイン)のドレスを着るなんて正気の沙汰ではない。  幼い頃に夢見た「お姫様」の理想はぽいっと捨て去り、今も薄手の長衣(カフタン)内衣(ギョムレッキ)下穿き(シャルワール)――と、トゥルハン様式を続けている。 (最初は、河に囲まれた屋敷なんて涼しげね~なんて思ってたけど……甘かったわ……)  ソファの横に備え付けられたサイドテーブルの上に置かれたグラスは、大分前よりその表面に汗を掻いており、持ち上げると、カランという氷の涼しげな音と共に下に水で輪を作った。  ヒュマシャはふわ、と檸檬の香りが漂うその砂糖水を口に含むと、喉の奥へと流し込む。僅かに塩が入ったそれは、これだけ湿度が高いととにかく口当たりがいい。 「おい、なんってカッコしてんだ、お前……。せめて、もの飲むときは起き上がって飲めって言っただろ」  ガチャ、という音と共に、ひとりの青年が部屋へと入ってくる。ちらり、視線だけでそれを追えば、そこにいたのは予想通りこの屋敷の現主であり、かつて皇帝陛下(スルタン)と呼ばれ世界中から(こうべ)を垂れさせた青年――ルトフィーの姿。  相変わらず作法に口うるさいこの青年もまた、この国の服装を身に着けず、相変わらずの長衣姿であり、この国の湿度に根を上げた仲間であった。先ほど図書室へ行くといって出かけたのだが、その手には何やら図鑑のようなものを持っているため、お望みのものはあったようだ。 「だって……暑くて、溶けるわよ……こんなん……」 「……まぁ、気持ちはわかるが」  ルトフィーは苦笑を頬に貼り付けると、ヒュマシャの寝そべるソファまで足を進めてくる。シュルシュル、という衣擦れの音は、耳に涼しく心地いい。少女はむくり、と起き上がると、彼の座る位置を開けた。  ふわ、と青年の長衣の裾が翻り、隣がギシと沈み込む。 「じゃあ……夏の間、どっか行くか」 「どっかって……? どこよ……?」 「そうだな……例えば――」  ルトフィーは手に持っていた図鑑をばさ、と開くと、少女へとそれを傾け見せてきた。紙に描かれたものは、世界地図――と呼ばれるものだろうか。かつて【黄金の鳥籠(カフェス)】にいた頃に、トゥルハン帝国とその周辺諸国が描かれたものは見たことがあったが、世界地図なるものは初めて見た。 「ここ、とか?」  ぱちくりと睫毛を上下させる少女へと、ルトフィーは地図の一点を指し示す。そこは、地図上の中で南にある大陸の、とある場所。 「え……っと。待って。こっちの、これ。ここが、トゥルハン……チュルク共和国でしょ? で、えっと……、こっち。ここが、今いるウェネト」 「そうそう。で、ここは?」 「……昔、この辺もトゥルハン帝国の治める場所だったーって言ってた場所よね? ここって」 「ふはっ。やっぱお前、教本丸暗記しただけあって物覚えいいな」  ぽんぽん、と赤味がかった金糸に、青年の手のひらが触れてくる。これだけ湿度が高いとなれば、くっつくのも暑苦しいのだが、それでも彼との触れ合いは胸の裡がこそばゆい気持ちになる。  ヒュマシャはもにもに、と唇を動かしながら「それで」と藍晶石(カイヤナイト)を彼へと向けた。 「ここが、何なの??」 「カランフィルの故郷だよ、そこ」  青年の返事に、少女の瞳が見開かれる。  カランフィル――。  トゥルハン帝国の皇帝の住まいであった新宮殿(イェニ・サライ)――その中にある女の園・後宮(ハレム)。そこをまとめ上げていた南方出身の黒人宦官の(トップ)である監督長(クズラル・アースゥ)の地位にいた、その人である。  二年前の政変(クーデター)の後に、復位した皇帝・ルトフィー一世から長年の労をねぎらわれ暇を貰ったらしい。その後、昔泣くほどに帰りたいと願った故郷へと帰った彼は、今は幼いルトフィーが私費で建てた病院で雑用などして過ごしているそうだ。 「え……、本当!? 本当に!? 行きたい……っ!! 行ってみたい!!」 「まぁ元首の許可はいるだろうけど、ダメとは言われないだろうしな……。ずっと、俺もあいつに会いに行きたいって思ってたから、ちょうどよかった」 「えー、じゃあちょっと準備早くしなきゃ……っ!」  先ほどまでぐったりとだれていた事などすっかり忘れ去ったヒュマシャは、ソファから立ち上がると青年の腕を引っ張った。案の定、「さっきまでのぐーたらはどこにいった」と軽口を叩くルトフィーを、「いいの!」と強引に立ち上がらせると、青年の身体が僅かに傾ぐ。  少女の顔に影が落ちてきて――そして。  視界の端に、たぷりと水を運ぶ河を捉えていた少女の瞳が、そっと長い睫毛の奥に消えた。  かつて、東西の諸国を圧倒的な力で征服していったトゥルハン帝国。  その、後宮の最奥――人目のつかないような場所にひっそりと、宮廷を抱くヒッポス海峡の色をそのまま映しだしたかのような建物があった。  そこは、皇帝位に就くことのなかった皇子を幽閉するための部屋――。  皇帝一族の血を絶やさぬように。  けれど、権力を決して望まぬように。  生きながらに殺される。  殺されるように、生を紡がれていく。  【黄金の鳥籠】と――そう呼ばれた幽閉所には、もう囚われ人の姿はない。  幸せの鳥と共に、自由を得て空へと飛び立てたのだから――。
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