第一章 黄金の鳥籠

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第一章 黄金の鳥籠

 鋭い陽射しが、乾いた空気を刺すように地面に降り注いでいた。  空はどこまでも高く、青い。  数え切れないほどの綿を積み重ねたような白い雲が、高い空の高みを目指すかのように背伸びしている。  眼前には、幾度か切れ込みを入れ、縁を鋸で切り刻んだかのような形の濃い緑の葉。それらがいくつも垂れ下がる中からこっそりと顔を出しているのは、この村名産の葡萄である。 「……あっつ……」  ポリーナは額に浮く汗を手のひらで拭うと、屈めていた腰をぐいっと反らす。仰ぎ見た太陽は、いまを盛りとばかりにギラギラと地上を照らし、葡萄の木々の下に黒々とした影を作り出していた。  ときおり吹く乾いた風が、ばさりと長胴衣(サファラン)頭布(プラトーク)に風を孕ませ乱していく。ふたつに結わき、編み込まれた少女のやや赤みがかった金の髪が、ふわりと舞うように宙に踊る。  丁寧に手入れされているわけでもなく、乾いた空気に晒され続けた髪は、毛先に行くほどまるで枯れ葉のような手触りだった。けれど、こうして陽の光を浴びれば、まるで宝石のようにキラキラと輝きを帯びる。  少女は、一瞬のものだとわかっていても、自身にかかる魔法のようなその瞬間が大好きだった。 (あ、……っと、サボってる暇はない、ない)  軽く、とん、とん、と腰を叩き、再び少女は自身の仕事である葡萄の収穫に戻る。傍らに置かれた大きな籠の中には、すでに半分ほど葡萄が収められているが、今日中に自身の担当区分の収穫を終わらせなければならないのだ。  ようやく十をいくつか越えたばかりの齢の子供と言えども、貧しく、雇われている身である少女には、遊んでいるような時間などないのだ。 「あははははっ、ガーリャ。ほら、今年もすっごい甘いわ」 「ふふっ、そんな風に焦らなくても、大丈夫よ。好きなだけ、いっぱい食べて?」 「ガーリャも、ほらっ」 「もうっ、こんなところで食べているなんてお父さまに知られたら、きっと叱られてしまうわ……だから、内緒。ね?」 「あははっ、わかってるってば」  少し離れたところで、たわわに生った葡萄のような瑞々しい声が弾ける。  ポリーナがちら、とそちらへと睫毛の先を向ければ、色鮮やかな長胴衣の裾を風に翻す数人の少女たちの姿。この葡萄畑をはじめとする土地持ち――小さいながらもいわゆる「領主」と呼ばれる家柄の娘・ガリーナと、その取り巻きたちである。  彼女たちにはポリーナとは違い、労働などせず、日がな一日、ああやってお喋りに興じて暮らしていた。どうやら今日も、お喋りの傍ら喉でも渇いたのだろう。ポリーナたちが収穫した葡萄を、すでにいっぱいになった籠から少々失敬しているらしい。 「葡萄だけでお腹いっぱいにするとしたら、どれだけ食べなきゃならないかしら?」 「結構水分多いものね。あっという間にお腹いっぱいになりそうな気がするわ」 「じゃあ……みんな、試してみる? いくら食べても、構わないわ」 「ガーリャ、本当!?」 「やったぁ!」  きゃいきゃいと甲高く騒ぐ声を聴く限り、どうやら「少々」では済まなそうな雲行きになってきた。 (はぁ!? 人が収穫したもの、どんだけ盗み取って食べるつもりよ!!)  瞬間的に、ポリーナの脳内が苛立ちに沸騰しかけるが、そもそもこの葡萄も、畑も、ポリーナの家の持ち物ではない。家の財産(もの)を消費して何が悪いと居直られるだけである。  もっとも、領主たる父親にはそれを告げずに収穫量が少ないことはそのまま農奴と呼ばれる雇われ農民の自分たちのせいになるのだから、たまったものではないのだが。  少女の暮らすこのルィムという土地は、父や祖父、そのさらに前のご先祖のころより周囲の国々の様々な思惑によって昨日はあちらの国の属国、今日は別の国の支配下――と、まるでボールが転がるようにその主導権を常に奪われ続けてきた、そんな土地だった。  いつまでも情勢は落ち着かず、いまだ人攫いなども横行しており、隣の村では出かけた娘が帰ってこない、等という話も珍しくなかった。  けれど、気候的に葡萄や柑橘類が育てやすく、それを産業になんとか人々が暮らしていける場所でもあったため、代々ここに住み着いたままという人間も多かった。  ポリーナの家もまさにそんな代表であり、決してゆとりある生活が出来ているわけでもないが、代々領主に雇われ、こうして葡萄畑の世話をしながら昨日も今日も明日も明後日も変わらない、同じような毎日を繰り返し暮らしていた。 (あ、雨……?)  ツ、と汗がこめかみから流れ落ちるのを拭ったその瞬間、土煙を吸い込んだときのような、カビくさいような、湿ったにおいが鼻腔を衝いた。ふ、と空を見上げれば、頭上はいまだ青空に恵まれているものの、空の端にある巨大な雲がまるで炭でも落としたかのように黒く染まっている。  このままでいけば、あっという間にこの周辺も雨雲に襲われそうだ。 (早く、収穫できるところまでやらないと……)  いまだきゃっきゃと愉しそうに葡萄を食している少女たちへ、ポリーナが険を滲ませた視線を流すと、どうやらたまたまこちらを向いていたらしいガリーナの大きな瞳に捉えられた。 「あら、ポーリャ。お久しぶりね」  ゆったりと、おっとりとした優しげな声音が、ポリーナの愛称を親しげに呼ぶ。  上質な花柄の頭布から零れ落ちる髪は、月の光のように柔らかな淡い色合いの金髪(ブロンド)。コテで巻かずとも綺麗に巻かれたその髪は、傷み知らずでつややかに少女の肩先をふわりと優しく流れていた。  白磁の肌に、薔薇色の頬。やや垂れがちで大きな瞳を彩る長い睫毛は、くるりと上を向いており、その奥の瞳は橄欖石(ペリドット)のように柔らかい光を宿している。  どこか幼さを感じさせる容貌だが、ポリーナよりも確か年齢はひとつ上だったはずだ。  好みの差はあれど、男が十人いれば八人は好みだというに違いないほどの美少女である。 (まぁ、中身は真逆の性悪だけど)  ポリーナは、手に持った葡萄の房を籠の中へと入れると、大きなため息をひとつ零し、立ち上がる。年齢差も勿論あるだろうが、代々貧乏暮らしのポリーナと違って裕福な家庭に育った彼女は、栄養状況が素晴らしいようで、内衣(ルバシカ)の上からかぶっている長胴衣を巨大なふたつの果実が押し上げていた。 (あんだけ毎日葡萄食べてたら、この肉も葡萄で出来ててもおかしくなさそうよね)  思えば顔立ちはガリーナに劣っているものの、彼女の取り巻き達もみな、豊かな身体に恵まれている。自身の凹凸の少ないぺったんこな胴は、もしかして葡萄を食べていないせいではないか。 (ま、もっともこの娘たちは、頭の中にも葡萄詰まってそうだけど……)  内心で毒づきながら、少女は藍晶石(カイヤナイト)の瞳を彼女へと向け「何か?」と訊ねると、まるで天使のように優しげな笑みを浮かべたまま、まるで日頃から親しくしている友人へ話しかけるようにガリーナは声を紡ぐ。 「用ってほどでもないのよ。ただ、最近お話していないし。どうしているかなって思って……」 「いや、用がないなら話しかけないで欲しいんだけど。あたし、見ての通り、まだ仕事残ってるのよ」 「まぁ。もしかして、忙しかった?」 「えぇ。あなたたちが、収穫した葡萄を山ほど食べるせいで」  苛立ちを隠そうともせずに言い捨ててやると、ガリーナは「まぁ」とぱちくり、大きな瞳の上で長い睫毛を羽ばたかせた。 「ポーリャも食べたかったら、そう言ってくれればよいのに」 「別にあたしは食べたいわけじゃないの。仕事の邪魔しないで、って言ってるの」  いや、食べたくないというのは流石に嘘だ。  ルィム産の葡萄は質がいいと評判なのだから、こうして携わっている以上一度は口にしてみたい。もっとも、雇われ人の家の娘などが口に出来るような代物でもないのだから、始めから諦めているのだが。 「そぅ……ごめんなさいね? でも、ポーリャも嫌いじゃなければ是非、葡萄食べた方がいいんじゃないかしら」 「……なんで」 「だって……内衣も外胴衣も、それ、確かイーラのおさがりだったはずだけど、ぶかぶかで可哀想……。ポーリャもそろそろお年頃なのだから、いつまでもそんな痩せぎすなままでいては、駄目よ?」  如何にもポリーナを心配しているのだと、気遣わしげなその表情で語る彼女の本心が、両手を当てることで隠された唇の笑みに表れていることは短くない幼馴染の付き合いの中で嫌というほどわかっている。  ゴロロ……、と雷鳴がどこかで鳴り響いたような気がする。  否――、自身が纏う低くなった気圧のせいだろうか。 「あ、でもポーリャは勝手に葡萄食べてはいけないって、お父さまが言ってらしたのだったわ。可哀想……ごめんなさいね?」 「そう思うんなら、仕事の邪魔だけはしないでもらえると助かるわ」 「あぁ、そうね。お仕事」  ポリーナの傍らにある籠の中から、葡萄を一粒もぎ取ると、少女は唇へと押し当てながら皮をつるりと細い指先で剥く。形の良い唇が、瑞々しい果実を吸い込むのと同時に、指先に残った皮が、ぺ、と地面に捨てられた。 「それじゃあ、ごきげんよう。またね」 「えぇ、ごきげんよう。さようなら。もう二度と話しかけて来なくていいわよ、ガーリャ」  優雅に背を向けたガリーナへ、べぇ、と舌を出しながら吐き捨ててやると、艶やかな金糸がくるりくるりと笑うように彼女のしなやかな背で遊ぶ。  ――刹那。 「襲撃ッ!! 襲撃だぁ――――――ッッ!!」  村のある方から、悲鳴のような叫び声が響いた。  次の瞬間、砂煙を上げながら何頭もの馬に乗った男たちが、一直線に葡萄畑へと走ってくる。 「……っ、ポーリャッ!!」 「ガーリャ……ッ」  互いに守り合うように、身を寄せようとした少女たちに、一瞬で目の前までやってきた男たちが手を伸ばしてきた。外見的特徴からして、近隣の村を襲う人攫いの集団――ヴォルガと呼ばれる者たちだろう。  ポリーナはともかくとして、ガリーナは領主の娘だ。彼女を助けようとする者が、村からやってくるに違いない、と、なんとか二人で抵抗しようとしたが、あっという間にその身を馬上の男に捉えられる。 「ガーリャ……ッ!! ちょ、やめてって……、離してッ!!」 「ポーリャ……ッ!! いや、なんで……私が……っ!」  ガリーナの悲鳴と同時に、ポツ、とポリーナの日焼けした頬に冷たいものが一粒、落ちてきた。 「……っ!?」  弾かれた様に天を見上げれば、先ほどまで晴天が広がっていた空は、遠くにあったはずの雨雲に覆われている。思えば周囲もいつの間にか暗くっており、鼻腔を土煙のにおいが衝いた。  ポツ、ポツ、ポツポツポツ――と、徐々に勢いを増した雨が、人攫いに捉えられた少女二人の周囲を水の膜で覆っていく。 『帰るぞ』  ポリーナを肩上に抱えた男が、一言異国の言葉を口にした。  聞いた事もないその発音に、少女が軽く眉を顰めると同時に、拘束された男の身体が突然揺れる。ポリーナのふたつに結った三つ編みが、雨を吸ってその毛先からいくつもの雫を作った。 「嘘よ……こんなの、やだ……っ!! 離して……家に、帰してッ!!」  叫んだのは、攫われたどちらのものだっただろうか。  少女の声は余韻を残す事なく、雨音と馬の蹄の音に掻き消された。
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