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目の前に、巨大な門があった。
四年ほど前の、まだ故郷にいた頃の自分が見たのならば、きっとそれ自体を城なのだと勘違いしてしまうほどの大きな門。「挨拶の門」と呼ばれているこの門は、両脇に城壁と一体となった側塔があり、そのふたつの塔に渡る回廊には鋸壁の狭間が設けられている。
十代ほど前の皇帝が建造したと云われる新宮殿へ足を踏み入れるための、入口ともいうべき門である。
人が行き交ってもまだ余裕がありそうな門扉の両端に、垂れ袖の赤の上衣を着た常備歩兵軍が警備に当たっている。一瞬、ぎょろりとした目をポリーナへ向けてきたが、彼女の目の前にいる南方出身の男の姿にそれ以上何か咎めるような素振りはなかった。
「前もって連絡していた通り、本日付で、後宮入りする妾を連れてきた」
「承知した」
入れ、という声と共に、巨大な門へと足を踏み入れ、歩を転がして行く。
この巨大な敷地に入るための正門である帝王の門から挨拶の門までの道にあった「第一の中庭」は、宮廷の関係者のみならず一般市民も入ることの出来る空間で、教会などに集まる人々の姿が見えた。けれど、ここから先は許された者のみしか入ることの出来ない皇帝の私邸とでも言うべき場所だ。
幾度か後ろを振り返り、辺りへときょろきょろ視線を泳がせながら門の中を進んでいくと、すぐに一気に開けた空間に出た。
「わ……っ」
先ほどまでの第一の中庭は、市民にも開放された空間であった為に、緑豊かな庭園だった。壁沿いに樹木が並び、地面には芝生の絨毯。至る所に季節の花々が笑っている、そんな自然豊かな空間だった。
けれど、挨拶の門を越えた先に広がる「第二の中庭」は、きちんと整備された石畳に、それらを取り囲むようにきらびやかな建物が並ぶ。故郷から連れてこられ、右も左もわからないままに教育のため押し込まれた宮殿も、当時の自分から見たら過ぎたるほどにとても立派な建物だったが、ここまでの規模ではなかった。
確か挨拶の門から先は、政を行う庁舎が配置されているという話だが、堅苦しさよりも先に絢爛さがある――そんな場所だった。
くるりと辺りへ視線を流して行けば、左側にはひと際高い塔のようなものがある。あの上へ昇ったならば、かなり遠くまで見渡せることが出来そうだ。
(でも、流石にルィムは見えない……かな)
あの日、故郷から突然連れ去られてから、すでに四年が経過している。
奴隷として市場に売り飛ばされ、皇帝の妾として買われ過ごしたこの四年の間に、もはや帰ることなど出来ないということは嫌というほどわかってはいる。むしろ売られた先に恵まれたせいで、故郷での暮らしよりも待遇よく過ごせているため、悲壮感というものも正直いまのところあまりない、というのが正直なところなのだが。
(まぁ後宮に入っちゃったら、どうやったって帰れないし……流石に感傷に浸りたくもなるっていうか……)
いまはもう、思い出すことさえ稀になってしまったほどの家族だが、とりあえず、みんなが元気でいてくれたらいいなと願う。
「何をしている、こっちだ」
ポリーナがぼんやりと高い塔を見たまま気もそぞろに歩いていると、随分前へ進んでしまった男から鋭い声が飛んできた。彼ら南方出身の黒人宦官は、出身地のせいか身長はあまり大きくはない。
トゥルハン帝国に売られてきて初めて知った事だが、どうやらポリーナたち北方の人間は身長が彼らと比べ、大きい傾向にあるらしく、男女の差があるというのに宦官との身長差はさほど大きくはない。けれど、彼らはイチモツを取っているせいか、より女性的に――要は肥える人間が多く、横幅にものを言わせる圧力というものが半端ない。
また、声も女性的になってくる為、男に叱責されているというよりも、年配の女性から叱られているような気分になってしまう。男の怒鳴り声というものも恐ろしいが、女特有の甲高いヒステリックな声というもの精神的に消耗が激しい。
「はぁい。すいまっせーん」
ともあれ、これ以上苛々させてはまたいらぬお説教を食らう事になってしまう。ポリーナは口先だけの謝罪の言葉を嘯くと、弾むように石畳を蹴り軽く走り出す。長衣の裾が空気を孕み、肌馴染のいい下穿きがシャリシャリ衣擦れの音を立てた。
頭布から零れ落ちるのは、赤みがかった金の髪。四年前の枯草のような手触りが嘘のように、つややかな光を弾きながら、ゆったりと背を流れている。
勿論、服は最高級の代物ではない。けれど、後宮入りするのに恥ずかしくない程度の――一般市民からしたら、羨むほどの品である。
家族との生活と引き換えに得た、美しさ。
あの日、ポリーナを攫った男たちは、あの時点ですでに天使のような愛らしさであったガリーナを高値で売る算段ばかりをしていたようだが、どうやら一応黄金の区分に入る髪に、藍晶石の瞳、日焼けさえしなければ抜けるように白いキメの細かい肌――といった北方出身の特徴を備えていたポリーナも、どうやら買い手は多かったらしい。
ガリーナが早々に売られていった後に、少女も南方出身の男に高値らしい額で買われ、皇帝の妾となるのだと教育された。貧乏故に荒れていた外見は美しく生まれ変わり、教養もそこそこだったと思うが、どうにも性格的に自分は黒人宦官たちのお眼鏡に叶わなかったらしい。
同時期に教育を受けていた少女たちが、ひとり、またひとりと後宮に旅立つ中で、気づけば四年、そこでみっちりしごかれ教育を受ける事になってしまった。
(まぁその分、芸事や知識……あと人間付き合いのアレコレってのは嫌になるほど、学べたけどねー)
故郷にいた頃は、ガリーナの取り巻き連中とよく揉めたものだった。ガリーナ自身は決して自分で揉め事に首を突っ込まないし、揉め事を嫌うような素振りをしていたが、実際彼女が嗾けていたことくらい気づいている。
(ホント、あの天使然とした顔からは信じられないような性悪だったわー、ガーリャ……)
だが、馬鹿正直に喧嘩を買っていた自分も悪いと今では思う。売られて以降、女の園では無駄な争いは自分の首を絞めるだけだとよくよく学んだ。
「遅い」
「すいまっせん!」
黒人宦官は少女が追い付くと、再び歩を前へ前へと進めていく。「幸福の門」と呼ばれる、これまた宮殿のひとつではないかと思うほどの大きな門を通り抜け、その後も続く庭に進むのかと思いきや、宦官は左へと曲がって行った。
「後宮ってこっちなんですか?」
「そうだ。……無駄口を叩くな」
「ハイ」
ハイ。
二度目の「ハイ」は心の中で呟いておく。
左折して、すぐに目の前に現れた建物の入口部――、そこには南方出自にしてはかなりの長身といえる大男が立っていた。体型も宦官の例にたがえる事なく丸みを帯びているが、それでも身長も高いせいか肥えているという印象はない。
金糸、銀糸で袖口、襟部が刺繍された長衣を纏っていることからも、彼が後宮の管理をしている宦官長であることが察せられた。
ここまで連れてきた宦官が腰から深く頭を下げるのに倣い、ポリーナも同様に顔を地面へと向ける。視界の先で、さら、と金の髪が肩口を零れ落ちた。
「本日付にて、後宮入りさせる娘を連れて参りました」
「うむ……ルィム出身の娘だったか」
想像していたよりも、太く低い声だった。流石に宦官長ともなると、威厳がある声音を敢えて作っているのかもしれない。
「売られてから四年か……。随分、教育に時間がかかったものだな?」
「……まだ、幼かったという事もありますので」
「なるほど。いまちょうど、十六か……。ルィム出身の娘は、いまも昔も後宮に数多くいる。現在、皇帝陛下からご寵愛賜っている者の中にも、確かルィム出自のものがいたはずだ。お前も励むがいい」
「はい。ありがとうございます」
「名は……」
そこで一旦、宦官長は教育係の男へと視線を向けたらしい。目の前で、彼が面を上げた姿が視界の端に映った。
「まだ、トゥルハン名は与えてはおりません」
「そうか……ならば、そうだな……」
トゥルハン帝国の後宮に入る者はみな、トゥルハン名を与えられる決まりになっていた。大抵それは、古代の他国語からつけられることが多い。
「お前にいま、トゥルハン名を授ける。ヒュマシャ、と名乗るがいい」
「……幸せの鳥、ですか?」
「んんっ!」
思わず顔を上げてしまった事で、宦官から咳ばらいを受けるが、宦官長は太い眉をぴくりと動かしただけでそれ以上の叱責を上げる事はなかった。小さく肩を竦めながら、ちらりと宦官を見遣り、そして僅かに口角を少女は持ち上げる。
恐らく、自身が四年も後宮入り出来なかった理由は、その辺りにあるのだろう。
「……ヒュマシャ……」
ポリーナ――改め、ヒュマシャは、口の中で転がすように自分の名を紡ぐ。正直まだ、自分の名という自覚はないが、その名の意味は嫌いではないと思った。
「では、着いて来い。まずは妾たちの大部屋へ案内する」
くるりと向きを変えた宦官長は、ヒュマシャの返事を待たずして扉の奥へと消えていく。横にずれ、道を開けた長年教育係をしていた宦官が頭を下げるのを視界の端に捉えながら、少女は大きな男の背を追った。
世界でも有数の大国であるトゥルハン帝国。その後宮の内部はどんなものかと思っていたが、すれ違うのがやっとというほど狭い廊下がどこまでも続いていた。
(逃亡防止のためだったりするのかしら……)
きょろきょろと見上げた天井は高く、左右の壁は白い漆喰が塗り固められている。閉塞感がある場所ではあるが、頭上には採光が考えられた窓があり、さほど暗さは感じなかった。
「あのぅ……さっき、ルィム出身の人がいるって聞きましたけど……」
「いまの皇帝陛下が即位されて、すぐ――二年前に、後宮に入った妾だ。いまは陛下のご寵愛を賜り側室のひとりとなっている」
「名前は……?」
「知り合いかどうかを知りたいのかもしれないが、既にトゥルハン名を与えられている。名を聞いてもわからないと思うがな」
「……確かに」
ごもっともである。
ヒュマシャが軽く唇を衝き出しながら頷くと、一度足を止め、肩越しに振り返っていた宦官長の面が、呆れの感情を宿す。そして、溜息をひとつ零した後、再び彼の足が廊下へと歩を刻み出した、その瞬間。
「これは……ミフリマーフ」
僅かに驚いた声を、目の前の大男が上げた。
ここでは皇太后以外の女はただの奴隷に過ぎないため、宦官長の方が立場が上であるらしい。
ミフリマーフと呼ばれた女は、恭しく眼前の宦官長へと頭を下げて挨拶をしていた。
「どこへ?」
「浴場へ行こうかと思っております。そちらは? 新しく入った、妾かしら?」
女の声に、ヒュマシャが小さくその肩を揺らす。どこかで、聞いた事のある声だ。たった今、彼女のことを思い出していたせいで、一瞬空耳かとも思ったが――。
少女は、宦官長の身体の向こうにいる人物を確認しようと、顔を僅かに傾けた。
けれど。
「あら……もしかして、あなた……」
ヒュマシャがそれを確認するより先に、まるで天使の歌声かと思うような美しい――けれど、聞き覚えしかないその声が、たった今なくしたばかりの少女の名を呼んだ。
「ポーリャじゃない……?」
そこには、あの攫われた日よりも一層美しく成長した昔馴染みの姿があった。
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