第一章 黄金の鳥籠

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 水の中に揺蕩う夢を見た。  ゆらぁり、ゆらぁりと、身体を揺らされながら、水の中を揺蕩う夢。  その実、ヒュマシャは海に入ったことなどなく、舟遊びなどという優雅で贅沢な遊びも当然したことはない。  だから、実際水の中での感覚なんて知っているわけもないのだが、それでも右へ左へゆったりゆったりと揺らされるその感覚は、まるで人の話に聞く波間に漂うように思えた。  瞼の上に微睡みが貼り付き、意識はぬるま湯に浸かったようにぼんやりとしている。ただただ、与えられる波間を泳ぐ感覚に身を任せていた――その瞬間。   ドサッ!! 「……ッ!?」  少女は、突然訪れた激しい衝撃に、ハッと瞳を開けた。  特にひどい痛みなどがあったわけでもないが、彼女の身体に訪れたそれは衝撃とそう評するしかないもの。一瞬で浮上した意識がなにが起こったのかと、状況を確認しようとし――けれど、視界はただただ暗い。  それどころか、起き上がろうにも身体を締めるように、ぐるっとなにか大きな布地で全身を巻かれており、身動きひとつ取れそうになかった。 (な、なに!? なんなの、これ……っ!?)  せめて腕だけでも自由になればよいのだが、後手に組まされた状態で全身を巻かれているらしく、ヒュマシャひとりの力ではどうにもする事も出来そうになかった。 (ゆ、夢じゃない……!? え、っていうか、あれ? ここどこ。なんで、あたし……こんな??)  文字通り右も左もわからないような状況に、胃の腑が喉元まで持ち上がってきてもおかしくなさそうだというのに、脳裏に巡るのはただひたすらの疑問符ばかり。生来、図太い性格であるという事が、この混乱下においてはある意味パニックを起こさずに済む要因に繋がっているのかもしれない。  それでも疑問で脳の中を全て埋め尽くされそうになっていたヒュマシャが、布地に隔てられた向こう側で、なにかが小さく響いたような音を拾ったのは、奇跡といっていいだろう。  相当分厚い布で巻かれているのか、自身を取り巻く環境がどうなっているのか察する事も難しい。けれど、それでも耳を欹てていると誰かが近づいてくるような振動が、床から伝わってくる。  暗闇の中、周囲がじんわりと赤く染まったような気がするのは、恐らく近づいてくる人物がランプでも持ってきているせいだろうか。 (え、まさかあたし、また攫われたとか??)  悲しいかな、なまじ、誘拐からの人身売買はすでに経験済みのため、真っ先に疑ってしまうものが世間的には最底ランクの想像である。それ以外の可能性を探そうにも、目覚めたばかりの脳みそではまともな考えなど得られるはずもない。 (え、なにこれ……。これ、じっとしてた方がいいの?? それとも逃げた方がいい?)  しかし、逃げるといってもこの状態ではどうする事も出来ない。  近くに寄ってきた人物も、何か喋ってくれれば状況がわかりやすいものを、一言も発しないままただヒュマシャの傍にただあるだけだった。混乱が続きすぎたせいか、すでに当初感じていたはずの恐怖は大分薄れてしまっている。  どうしたものか、と眉を顰めたその瞬間、シュル、と衣擦れのような音と、小さな振動が少女を包む布地に伝わる。 (え……?)  ぎゅ、と痛いほどに締め付けられていた周囲の拘束が一瞬で解け、ごろりと少女の痩躯がくるりとその場へ投げ出された。その場で一回転した後に、ばさり、と、癖のない金の髪が先ほどまで自身を巻いていた布地へと散らばる。  突然、上部から飛び込んできた光に、一瞬瞳を窄め――ゆっくりとその明るさに馴染ませるように、少女は睫毛を持ち上げていった。次の瞬間、藍晶石(カイヤナイト)の瞳が捉えたものは、月明りを受けたステンドグラスを背に、その輪郭を淡い光に染めるひとりの青年。  年の頃は、二十歳ほどだろうか。  暗い色の髪は僅かな癖を持っており、ヒュマシャを見下ろす彼の額に軽くかかっている。彼の手には、橙の光を灯す装飾ランプ、背後にはステンドグラス越しの月明りがあるとはいえ、闇の帳が下りたこの時刻では彼の纏う色彩はわからない。  す、と通った鼻筋に、顰められた眉は太く男らしい。けれど、綺麗な二重の双眸は、その眦がやや垂れ下っており、恐ろしさよりもどこか幼さを滲ませる印象の顔立ちだった。 「おい。いつまでそうしている。古の女王(クレオパトラ)気取りか?」  ぼんやりと、月明りを背後に立つ青年を見つめたままでいると、どこか嘲りを孕む声が降ってきた。クレオパトラ、といえば、確か古代の女王の名だったはずだ。時の権力者であるカエサルの許へ忍び込む際、絨毯にその身を包ませ贈り物として届けさせたと云われているが、どうやら少女の状況をその故事になぞらえ揶揄ったらしい。 (っていうか、この人、誰なんだろ……)  四方をタイルに囲まれたこの部屋は、豪奢の限りを尽くしたと言っても過言ではない程、美しい部屋だ。いま、睫毛の先にいる青年にしても、身に着けている長衣(カフタン)の質から考えてもとても人攫いには見えなかった。  ヒュマシャはとりあえず、寝ころんだままの身体を起こそうかと、肘をつき上体を持ち上げた。  けれど。  その、瞬間――。 「……ゃっ!」  少女のその様子に軽く目を見開いた青年が、即座に腰を下ろし、一瞬でヒュマシャの両腕を捉えた。ばさ、と金の髪が再び床へ散る中、細い身体へと青年の身体が重しのように圧し掛かってくる。  ふわ、と鼻腔を擽るのは、柑橘系のにおい。  彼が纏う、香水だろうか。 「こ、こは……、何処……?」 「何処、だと? はっ、自分からこんな夜更けに忍んで来ておいて、よく言うな」  薄く三日月を描いた青年の唇に、ヒュマシャは息を呑む。  幼い印象の拭えなかった彼のその(おもて)に、月明りよりも寒そうな感情が、すぅ、と伸ばされていくのを、少女の藍晶石が捉えていた。
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