序章

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序章

 気づいた時は、ただ窮屈な暗闇があった。  前後左右がわからないまま、ただ揺さぶられ起こされたそこで、目が現状を把握するより先に、ふわりと柑橘のにおいが鼻腔を擽る。  ごろりと床に投げ出された細い身体が仰ぎ見た一瞬の風景は、薄闇の中の知らない天井だった。  そこはどうやら見知ったよく知る他の建物と大差はないような、四方をタイルで囲まれた部屋らしく、高い位置にある窓には緻密なステンドグラスがはめ込まれている。外の月明りを浴び幻想的な絵を映し出しており、傍らにある装飾ランプから零れる光が灯すタイルも、きっと昼間、あの大きな窓の向こうに陽の灯りを照らして見たならば、溜息を吐くほどの美しさなのだろう。  けれど、ヒュマシャの藍晶石(カイヤナイト)の瞳は、それら一切を気に留めることもないかのように、いままさに自分を組み伏せている青年の(おもて)へと視線を縫い止められていた。  拘束されていたなにかから零れ出た少女へと覆いかぶさるように、絨毯の上へと押し倒した彼の額の上で、僅かに癖のありそうな暗い色の髪がさらりとかかる。 「こ、こは……、何処……?」  驚きのあまり悲鳴を上げる事も忘れていた喉が、ようやく掠れた声を紡ぐ。  元より、人から抜きんでて手放しで称讃されるような美しいものだったわけではないが、それにしても我ながらひどい声だった。けれど、それを自身の耳朶が怯えたものとして認識した瞬間、現状をようやく把握したらしい心臓が急にバクバクと大きな音を立て始める。 「何処、だと? はっ、自分からこんな夜更けに忍んで来ておいて、よく言うな」  青年の唇が、薄く弧を描いた。  仰ぎ見た(おもて)から二十歳ほどかと踏んでいたが、思った通り声もまだ若い。声変わりは当然済んではいるのだろうが、男にしてはまぁ高い方だろう。  少女の長い睫毛が驚きに一度、頬の上で羽ばたくと、頭上で両腕をまとめて捉えている彼の指の力が強くなる。 「い……っ、た……! ちょ……、待ってよ……っ!! ここ、何処なのよ!! あたし、こんなとこ来てな……っ!!」 「こんなとこ、ね……。まぁ、好んで来たい場所ではないってのは、わかるけどな」 「だから、ここ何処……、って、やっ!!」  少女の両腕を拘束していた青年の肘が、そのままヒュマシャの顔の脇へと音もなく衝く。同時に、細い身体の上に彼の重みがそのまま圧し掛かり、ふわりと再び柑橘のにおいが強くなる。  ここが何処かも、わからない。  彼も誰か、わからない。 (でも)  この状況が、自分にとって良くない状況という事だけは、嫌でもわかる。 「ちょ、ちょ……!! ちょっと、ホントやめて!! 待って! 待ってってば!! アンタ何なのよ!! ここ、何処なの!?」 「こちらこそ訊きたい。お前は何者だ? 誰の命を受けて、ここにやってきた?」  ジタバタと足を動かすが、膝を割るように入り込んだ青年の身体はびくともせず、ヒュマシャを見下ろしてくる瞳の温度はただ冷めていた。話に聞く、男が女を征服する時のような昂りが見えるわけでもなく、その視線に名をつけるならば「殺気」が一番近いように思えた。  少女の胸の裡で煩いほどに音を立てる心臓が、ひやりと冷たい汗を掻く。 「誰、って……えっ?」 「皇太后(ヴァリデ・スルタン)からの差し金か? それともマフムトか?」 「マフムトって……」  それは、現皇帝(スルタン)の名だったはずだ。 (って言うか、皇太后からの差し金って……??)  混乱したまま、現状の把握が精いっぱいだったヒュマシャの脳裡に、ものすごい速度でほんの数時間前の出来事が流れていく。思い出せ。思い出せ。いま、この場で目覚める、その前は、何をしていた。自分は、どこにいたのかを思い出せ。 (そうよ、あたしは――)  突然の状況に、真っ白になっていた脳内へと徐々に色がついてくる。眉を寄せながら、それを追っていたヒュマシャは、はっ、と弾かれたように瞳を開いた。 「ガーリャ……、ガーリャは!?」 「ガーリャ?」  誰だ、それは。  青年の眉が軽く皺を刻み、語尾が持ち上がる。 「あたし、今日はじめて後宮(ハレム)に上がったのよ。そこで、同じ村出身だったガーリャ……、えっと……確か、そう……ミフリマーフ! ミフリマーフと久しぶりに会って、彼女の部屋に呼ばれたの!」  数年ぶりに再会した彼女は、名をガリーナから月の光(ミフリマーフ)と改めており、既に皇帝の側室(イクバル)となっていた。  村にいた頃はさほど親しくもなかった――どころか、正直相手から嫌われていると思っていたし、ヒュマシャにしても彼女のことは好きではなかった。けれど、共に故郷を離れ、異国に売られた後に再会した知己に、懐かしさから親近感を覚えたという彼女の言がわからなかったわけでもない。 「ミフリマーフ? あぁ、マフムトの側室(おんな)のひとりだったか」 「え……と、そう! それで、同郷の(よしみ)だって言って……今夜は陛下のお渡りもないから、一緒に話でもしようって……」  そう言われ、宦官長(クズラル・アースゥ)の案内から彼女へと少女の身柄は渡された。  ――そして。 「気づいたら、ここにいた――とでも?」 「そう! そう! それ!!」  やっとわかってもらえそうだ、と、こくこくと頷くヒュマシャの瞳に、く、と唇を片方だけ持ち上げ笑う青年の(おもて)がくっきりと映る。傍らにあるランプの光をその目に灯す青年は、暖かな色を宿しているというのに、真冬の風を思わせるほど冷たい笑みを浮かべていた。 「で、それを証明するものは?」 「……証明って……そんなのあるわけ……っ」 「ないんだろう? だったらそんなもの、この後宮ではいくらでも作れそうなありふれた話だ。お前が、皇太后やマフムトの差し金でこの鳥籠(カフェス)にやってきた暗殺者ではない、という証拠はどこにもない」 「カ、フェ……ス? 暗殺、者……?」  青年は冷たい笑みを浮かべたまま、空いている手で少女の胸元へと手をかけた。彼の瞳の中には、欲のような熱は一切感じられないままだが、恐らくこの流れはそういうこと(・・・・・・)なのではないだろうか。 「待って……、ちょっと待ってよ!! よく、わかんないけど、でも、あたしは、その暗殺者なんて物騒なものじゃない……っ!!」 「お前はさっきから待てばかりだな。じゃあ訊くが、その証拠はどこにある?」 「証拠!? え、と……だって、ほら……暗殺……そう! 武器とか!! 持ってない!! 手ぶらでしょう!?」  彼にいまだ頭上でまとめられたまま捉えられている手は、何も握られてはいない。  なんせ、ここで目覚めたばかりの時、自分は絨毯で全身を巻かれている状態だった。それを乱暴に解きながら「古の女王気取りか?」と言ったのは、彼自身だったではないか。 「武器、か……。なるほどな」  一見、納得したかのように頷いた青年は、それでも手の動きを止める事なくするりと下へと下げて行き、腰布(サッシュ)を何の躊躇いもなく引っ張った。シュル、と衣擦れの甲高い音と共に、長衣(カフタン)の合わせが開かれる。 「……ッ、ちょ……っ!!」  制止の声など聞こえないかのように、青年の指が内衣(ギョムレッキ)をたくし上げ、少女の薄い腹を探るように這った。肌の感触を確かめるというよりも、隠しているものを探るような、慎重な手つきで腹部から脇腹へ、そして背へと彼の指が滑る。 「そんな……とこに……、武器、なんて、隠せるわけないで、しょ……! そんな、とこに刃物なんて仕込んでたら、あ、あたしが……っ、怪我、するじゃない!!」  バッカじゃないの!?  初めて他者の指が自身の肌を舐める感覚に、全身を強張らせながら叫ぶヒュマシャに、ちら、と青年の瞳が向けられた。相変わらず、冷めた視線だ。決して、欲にまみれた感情を向けられたいわけでもないが、ここまで自身の身体を辱めているというのにどこまでも冷静な男の視線がひどく憎く感じてしまう。  悔しくて、唇を噛み締めながら眉尻を持ち上げた少女を見止めた彼が、不意に唇の端を持ち上げた。 「それは、どうだろうな?」 「……っ、どういう……意味、よ?」 「武器はなにも凶器とは限らんだろう? 毒物の可能性もある。粉薬、軟膏……なんせ、女の身体には、隠しどころが多い」  どこか愉しそうにそう呟くと、青年の指が背中から下穿き(シャルワール)の中へと滑り込む。 「例えば――、秘所(ここ)だとかな」  尻の割れ目をなぞるように下へ下へと降りてきた指は、何の準備もなく、突然ヒュマシャの足の付け根の中心へと突っ込まれた。 「……ッ、った……!!」  ピリッと引き攣れるような鋭い痛みに、少女は思わず瞳を閉じる。  まだ何も受け入れた事のないそこが、異物に痛みを覚えるなど当たり前で、乾いていれば尚更だろう。体勢的に奥まで指が侵入したわけではないが、だからこそ入口部が尚更ヒリついた。  青年に抱えられるように持ち上がった細い身体は、つっぱるような痛みから逃れるために、知らず、彼の指を受け入れるかのように腰を引く。彼は、そんな少女の心境など素知らぬ顔で、ここぞとばかりに狭い秘所に指を深く突き入れ探るように掻き回した。 「や……、やだってば……!! 痛……ッ!!」 「そりゃあ濡れてないからな。痛いだろうな」 「だったら、やめ……てって……痛ッ、……痛い……てばっ」  受け入れた入口はまるで火傷か切り傷でも作ったかのようにヒリヒリ痛み、腹の奥はまるで月のモノでも来たかのような重く鈍い痛み。  他者に、自分の身体の中を掻き回されるという恐ろしさ。  好き勝手弄っているくせに、ヒュマシャを覗き込む青年の瞳は酷く冷たく凍えている。  言いようのない恐怖が胃の腑から競り上がってくる気がして、けれどそれをこんな得体の知れない人間に晒してやるほど少女は素直な性質(タチ)ではなかった。 「だか、ら……ッ!! ――痛いって言ってるでしょっ!! この、下手くそ!!」  不自由な全身を、それでも捩り、足首をバタバタと暴れさせながら叫んでやると、身体の中を無遠慮にぐりぐりと掻き回していた指がピタリ、その動きを止めた。 「……おい。誰が下手くそだ」 「ア、アンタに決まってるでしょ!! きょ、教育係の宦官は、閨房芸の授業のとき、秘所はきちんと準備をしてからでないと痛みが大きくて、ちゃんと入らないから気を付けなさいって言ってたわ! 教本にも、そう書かれてたわよ!! アンタ、知らないの!?」  先ほどまでの氷点下の感情を貼り付けていた(おもて)が、見る見るうちに不機嫌な色に染まっていく。 「……何なんだ、お前……」  地声よりも若干低くなった呟きが、ステンドグラス越しに月明りが差し込む部屋に落とされた。前髪が軽く揺れるその奥にある眉間には皺が刻まれ、双眸には明らかな苛立ちが滲んでいる。  けれど、ようやく年相応の人間らしい表情になったような気がして――。  ヒュマシャは「こっちの台詞なんだけど」と口の中で声を転がすように、呟いた。  かつて、東西の諸国を圧倒的な力で征服していったトゥルハン帝国。  その版図は、最盛期と呼ばれたころよりすでに七割ほどの大きさとなっていたが、それでもいまだ唯一の皇帝を戴く君主専制国家であり、新宮殿(イェニ・サライ)と呼ばれる宮廷には、各地から集められた女奴隷たちがその寵を競う後宮があった。  その、後宮の最奥――人目のつかないような場所にひっそりと、宮廷を抱くヒッポス海峡の色をそのまま映しだしたかのような建物がある。  そこは、皇帝位に就くことのなかった皇子を幽閉するための部屋――。  皇帝一族の血を絶やさぬように。  けれど、権力を決して望まぬように。  生きながらに殺される。  殺されるように、生を紡がれていく。  そこを人は、【黄金の鳥籠】と――そう、呼んだ。
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