5 ナイフと鉛筆

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5 ナイフと鉛筆

 土曜日の朝だというのに、今日も目覚ましより先に目が覚めた。  昨日はなんて楽しい1日だったろう。  あのりんごの絵は早速私の部屋の机の前に飾ってみた。  額縁も何もない、画鋲で止めただけのりんごの絵があるだけで、なんだか自分の部屋が美術館になったみたいで誇らしい。  滅多に引っかかることのない踏切を渡り田んぼへと抜けると、昨日までピンク色に景色を彩っていたレンゲは田起こしの為に無くなっていた。  もうそんな時期かと思い、早朝の湿気と土の匂いを嗅ぎながら茶色で味気なくなった散歩道を歩く。  家に帰り、トロに朝ごはんをあげると今日もトロは勢いよく食べてくれた。 「そうだ、トロにも私の作品を見せてあげようね」  カリカリのフードを食べ終わるのを待ち、部屋に連れて行こうとするとトロは背中を震わせて食べたばかりのご飯を戻してしまったが、すぐに吐瀉物を食べようとする。 「ダメだよトロ、大丈夫?」  すぐに床を片付け、胃が空になってお腹が空いた表情を見せるトロに話しかけながら、リビングで朝食の準備をしている母の元へ向かう。 「お母さん、トロが食べてすぐに吐いちゃった」  母は目玉焼きを作っているところで、ちょうどフライパンに水を入れたところだった。 「あら、大丈夫かしら。昔からよく吐いていたからね、結奈は今日出かけるんでしょ?ゆな先生のアドバイス通り、少しお腹を休ませてお昼に少なめにご飯をあげておくわよ」  フライパンの中で水は一気に沸騰して蓋を曇らせている。  ガタガタと蒸気が音を立てて母を急かしている様だった。  私は母にお願いをして、足元のトロを抱えて2階の部屋に連れて行った。  トロはご飯を食べたそうで不満そうだったが、 「にゃー」  といつもの声を出して私の腕の中で喉をゴロゴロと鳴らしていた。  部屋に入り、例の絵の前にトロを連れて行く。 「ほら、トロ見て。私が描いたんだよ、上手でしょ」  昨日はあれだけ謙遜していたのに、今日は何故だか少しいびつなりんごを褒めてあげたい気分だった。 「もっと練習して、うまくなったらトロのことも描いてあげるからね」  トロは画用紙の匂いをフンフンと嗅いだ後に、私の顔を見てからまた、 「にゃー」  と鳴いた。  ゴロゴロ音が心地よく、トロを抱き寄せる腕につい力が入る。  通学よりも少し遅い時間の電車は土曜日ということもあってか、普段より空いていて座ることができた。  知り合ってまだ4日目だが、私は瑞希先輩と早く仲良くなりたくて仕方がなかった。  2年生なのに部長を務めていて、それでいて偉そうな様子もなく接してくれる優しい先輩。  それに、絵を描くための自分専用の道具が手に入るというのも気持ちを高揚させる一つの要因だった。          吹奏楽を始めて2週間経った中学の頃、帰宅すると音楽室で見慣れた形の楽器ケースが置いてあった。  母の微笑む顔を何度も見ながらケースを開けると、金色のチューブがカタツムリのように曲がった楽器が入っていた。  自分の楽器が手に入ったあの時の感動はやはり忘れられない。  すぐにホルンを手に取って触っていると、いつの間にかトロがケースの中に入っていて母と大笑いしたのも思い出し、電車の中だというのに思わず頬が緩んだ。    町田駅に到着した私は人の波をうまく避けながら、改札へと続く階段を降りて行った。土曜日だからかこの時間なのに人が多い。  改札を出てすぐの柱には予備校の広告が掲げられていて、その前に瑞希先輩が文庫本を読みながら立っていた。 「瑞希先輩!おはようございます。今日はありがとうございます」 「おはよう!私も画材屋さん行きたかったし気にしないで!今まで女子は私だけだったから、2人が入部してくれて嬉しいの。早く仲良くなりたかったしね」  瑞希先輩は薄いベージュのカバーに包まれた文庫本にしおりを挟んで、カバンにしまった。 「瑞希先輩!結奈!お待たせ!」  快活な声でJR町田駅の方向から未怜が現れた。  私たちを見つけて走ってきたのか、少し息が上がっている。 「瑞希先輩、せっかくだから画材屋さんだけじゃなくて、色々なお店見ていきませんか?」 「いいよ!じゃあとりあえず歩こうか」  4月の陽気はアスファルトと雑居ビルに囲まれて熱を帯びて、なんだか少し暑いくらいだった。  未怜は誰とでも気兼ねなく話すことができて、瑞希先輩とも臆せず楽しそうに雑談をしている。  私は少し人付き合いが苦手なので未怜がいてくれて良かったと思った。  2人が案内してくれた雑貨屋さんは、大きな通りに面した小さめのビルで、ビル全体が店舗になっていた。  オレンジ色のレンガの様な外観は、どことなく美術っぽさを醸し出していて、小さめの入り口は用の無い物は入るなと言われている様な印象を受ける。  美術部に入らなかったらきっと来ることもなかっただろうが、こうして新しい世界に踏み出すことに私は少なからず感動を覚えていた。 「よし、じゃあ早速見に行こう!瑞希先輩の買い物から済ませますか?」 「私は後でいいよ。結奈の買い物から済ませちゃおう」  未怜が尋ねると、瑞希先輩は私の手を取って店の中へ進んだ。  入り口の階段を登り店に入り、エレベーターで4階へ上がって、今まで見たこともない沢山の画材に囲まれながらまずはスケッチブックを探す。  昨日美術部で斎藤先生が貸してくれた、オレンジ色と深い緑で構成された表紙のものと同じものを見つけてそれを買うことにした。 「次は鉛筆だね、デッサンでは濃いめの鉛筆を使うから、色々な濃さのものを揃えておくといいよ」  瑞希先輩のアドバイス通りに私はデッサン用の鉛筆のセットを手に取った。 「消しゴムと、鉛筆削り用にカッターナイフも買っておくといいよ」 「え?鉛筆削りで削るんじゃないんですか?」 「鉛筆削りでももちろん大丈夫だよ。私はカッターをオススメするけど。慣れるまでは結構大変なんだけど、その苦労もなんだか創作のための時間って感じがして好きなんだよね。集中力も高まるし。未怜はどうしてる?」 「私もカッターで削ってますね。最初は本当に大変でしたけど。でも自分が使いたい様に削れるから私もオススメだよ」 「うぅ、私カッターで鉛筆削りなんてしたことないよ。大丈夫かなぁ」 「大丈夫大丈夫!教えてあげるから!」  未怜はいつもの調子で笑いながら肩を叩いた。 「よし、それじゃあ私もカッターでやるよ!」  何事も挑戦だと思い、カッターをカゴに入れてレジに進んだ。  画材屋さんで買い物をするなんて何だかドキドキしてしまう。  財布から千円札を取り出す時、なんだか緊張してしまい恥ずかしかったが、店員さんはにこりと笑いながら袋に詰めてくれた。 「色々とアドバイスをしてくれてありがとうございます!」 「無事に買えて良かったね!自分の道具だとモチベーション上がるし、これから頑張ろうね!」  ニコニコと笑う未怜を見て、私も嬉しくなり笑い返した。 「結奈良かったね。そうしたら、私の買い物に付き合ってもらってもいい?」  瑞希先輩がふわりとスカートを翻して笑い、それから私たちは階段を下りて2階へと向かった。 「結奈は油彩をやりたいんだっけ?」 「そうなんです。美術室で見た、「カササギ」と「声・夏の夜」に感動して」 「あー素敵な絵だよね。あれ哲司先輩が描いたんだよ」  瑞希先輩はそう言って、目当ての色の絵の具を持って駆け足でレジに向かった。 「え?今、哲司先輩が描いたって言ったよね?」  驚きの表情を隠せない私に未怜が答える。 「うん、入部届けを出しに行った時に、先輩たちが教えてくれたよ。あ、結奈は日直で遅かったんだったね」 「未怜知ってたの?私は本物、ってことはないにしてもレプリカかと思ったよ」 「絵の下の方に、「Satoshi.Y」ってサイン入ってたよ。でも、タッチも似てるし、色使いも完璧だよね。哲司先輩、贋作師になれるかも」 「え、全然気が付かなかった!私あの絵を見てすごく感動したのに!」 「感動することは良いことなんじゃない?実際、私もびっくりしたよ。高校生でこんなに描ける人がいるのかって!」  驚きと興奮は私の頭の中を駆け回って、心臓の鼓動を早めては体験入部の時の映像をまぶたの裏に再び浮かび上がらせた。 (あの絵を哲司先輩が?すごい。他にはどんな絵を描くんだろう?)
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