1 in the morning

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1 in the morning

「泣き顔の女の子は誰?」  どこか、遠い外国の街並みの中を長い髪の女の子が歩いている。  彼女が歩くたびに揺れる真っ直ぐな髪が、古い映画の少しぼやけた色彩の中でそよいでいく。  彼女は家からこっそりと服を持ち出すと金魚と交換して、流れる音楽の中自由に、それでいてどこか寂しそうに歩いて行く。  外国にはよくある風景なのだろうか、道端の水飲み場に手に入れたばかりの金魚を離すと、突然の自由を手に入れた金魚は戸惑いながらも水の流れに乗って泳いでいる。  彼女はその姿に見惚れているような表情で、けれどどこか少し寂しそうに笑って眺めていた。  今朝も目覚まし時計より先に目が覚めた。  ここのところ毎日。  私のここ3ヶ月の習慣になっていた。  4月の朝5時半の空気はまだ冷たく、桜が咲いているというのにまだ冬の残り香を頬に感じる。  私の家の周りには、遊ぶところもなければ早朝から開いている喫茶店もない。  それでも私が早起きをして散歩に出かけるのは、何となく、田んぼに咲いたレンゲを見に行きたいから。  車の通りもそれほど多くない地方都市の朝は空気がとても澄んでいて、起きたばかりでまだ眠っている私の肌を心地よく撫でてくれる。  薄い水色のパーカーを羽織って、鼻歌を歌いながらまだ朝露が残る道を歩いて行くと薄いピンク色が敷かれた田んぼが見えてきた。 『ほら結奈見てごらん、これがレンゲだよ。ピンク色で小さくて可愛い花だろう。一生懸命咲いているね。レンゲはね、田んぼの肥料になるんだ』  母が微笑みながら見守る中、泣きながら歩くまだ幼い私の手を握りながら、右手で薄いピンク色の絨毯を指して父がそう言ったことを思い出した。  最近では父と手を繋ぐことなどなくなったし、中学2年あたりからなんとなく喋りにくさを感じてそっけない態度をとっていたら、次第に話す機会も減ってしまった。  かといって仲が悪いわけでもなく、思春期の父親と娘なんてそんなものかなと思って過ごしている。  レンゲ畑は私の記憶の中の風景とは違い、濃いピンク色をしていた。  記憶にはフィルターでもかかるのか、父と見たレンゲ畑はもう少し薄いピンク色だったと思っていたが、記憶と目の前の景色がいくら乖離していたとしても、私はこのレンゲ畑がお気に入りの場所なのだ。  この地域の小学校では、授業の一環で稲を植えるための田起こしから稲刈りまで生徒たちの手で行うなんとも面倒な行事が6年間も続く。  稲と言ってももち米の稲で、秋には自ら収穫したもち米を使って餅つき大会がありできたての餅をみんなで食べるのだ。  自分達で育てたもち米で作ったつきたてのきなこもちを食べるのは至福のひと時で、その影響もあってか私は今でもきなこもちが大好きだ。  そんなことを思い出しながら今日も見渡す限りピンク色に染まった田んぼの周りを歩いていると、少しだけ冷たい風が、レンゲで敷き詰められた風景を撫でて揺らす。  家を出るときにはまだ薄暗かった空は少し赤みがかった橙色、薄紫色、青色、白のグラデーションを作りながら明るくなってきていた。 「今日も学校か。数学、当てられる日だったかも」  急に現実に引き戻された気がして、私は家へ足を向けた。
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