第10話『最高の選択』

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昼頃、オランは医者を連れてアヤメの寝ている寝室に入った。 医者に診てもらった所、アヤメの体に異常はないと言う。 懐妊もしていない。 人間が悪魔とのキスだけで懐妊するという根拠も今の所はない。 ただ疲労しているだけの状態で、栄養と睡眠で回復するとの事だった。 寝室には、アヤメとオランの二人きりになった。 ベッドで横になっているアヤメのすぐ側で、オランは椅子に腰かけている。 「アヤメ……気分はどうだ?」 「うん、寝たら良くなったよ。ごめんね、オラン…」 アヤメは力なく微笑んだが、オランはどうも腑に落ちない。 最近のアヤメが眠れなかった様子もないし、食欲が無かった訳でもない。 アヤメを疲れさせたのは、一体何が原因なのだろうか。 「……オレ様か?」 「え?」 「オレ様が、疲れさせるような事をしたのか?」 「ちがう…違うよ……!!」 アヤメは顏を左右に振って、懸命に否定を伝えようとする。 「私は今、オランと一緒に居られる毎日が、すごく幸せなの…!」 「ああ、分かっている」 「何をしても、何をされても、オランなら……大好きだから…」 「それも分かっている」 アヤメはオランが望むのであれば全てを受け入れ、その身を捧げるだろう。 例え拒んだとしても、オランの『命令』の一言で、アヤメは簡単に服従する。 ……そうなるように『調教』で育てた。 だが、オランはアヤメを服従させるつもりなどない。 妻として迎えるその日まで……最後の領域は侵さないつもりだ。 オランは、それ以上は何も言わずに、アヤメにそっと触れるだけの口付けを落とした。 不意を突かれたアヤメは驚き、一瞬にして顏を赤らめた。 習慣のキスはアヤメの方から行うので、オランからのキスは珍しいのだ。 「オレ様は仕事に戻るが、無理はすんなよ。いい子にしてろよ」 「うん。いい子にしてるから、またキスしてね…?」 「そうだなぁ……いい子にしてたらな」 いつもの調子で少しふざけ合うと、オランは寝室を後にした。 オランの背中を見送ったアヤメの目の端で涙が光った。 オランが執務室へと戻ると、そこではディアが神妙な面持ちで待っていた。 何事かとオランが問う前に、ディアの方から口を開いた。 「アヤメ様の不調の原因が分かりました」 「なんだと?てめえ、今度は確実なんだろうな?」 「はい。こちらをご覧下さい」 ディアは、ある物をオランに手渡した。 「………!!」 それを見たオランは血相を変えて、再びアヤメの元へと向かう旨をディアに告げた。 「ディア、しばらく席を外すぞ、後は任せたっ…!」 「承知致しました」 その頃のアヤメはベッドを抜け出して、テラスから中庭へと下りていた。 目の前に広がるのは、視界全てを埋め尽くす程の菖蒲(あやめ)の花畑。 時刻は夕方に近かったが、夕暮れの赤に溶け込む紫の花の色彩は絵画のように幻想的だ。 アヤメは、庭園の周りを一人で歩き続ける。 力のない足取りで、その瞳は美しい紫の菖蒲(あやめ)の花すら映していない。 アヤメの体力は、まだ完全に回復してはいなかった。 ふっと全身から力が抜けて、視界が揺らいだ。 ……だが、誰かが背後から腰に両腕を回し、倒れそうになった全身を支えながら抱き寄せてきた。 見なくても分かる。何度も包まれた事のある安心感だった。 背中に触れて感じるのは、力強さと温もりと、逞しくて優しい彼の胸元。 安心して力を抜き、背後の支えに身を任せる。 「オラン……」 オランは何も言わずに、後ろからアヤメの左手首を手に取った。 「やっ……だめ……!!」 アヤメは慌てて手を引っ込めようと反発するが、オランが握る手の力には勝てない。 やはり、おかしい。アヤメがオランに抵抗する事など、ありえない。 オランが握りしめた、アヤメの左手首。 その手の薬指には、あるはずの物がない。 婚約指輪だ。 「何故、言わなかった?……答えろ」 オランは、抑揚のない声で静かに問いかけた。 強く言わずとも命令形で言えば、アヤメは従うしかないからだ。 「違うの、自分で外したとか、捨てたとかじゃなくて…!気付いたら……なくて……」 「それで?」 「どこかで落としたと思ったから……ずっと探してた、けど、なくて……」 だんだんと、アヤメが涙声になってくる。 魔界に来た日から、婚約指輪は絶対に外すなとオランから言われていた。 アヤメは指輪も約束も大切に守ってきたが、どうやら何かの弾みで外れてしまったのだろう。 人間は魔界では著しく体力を消耗するが、指輪の魔力で防いでいた。 アヤメが疲労して不調になっていた原因は、指輪を嵌めていなかったからだ。 朝、布団の中で不自然に動いていたのは、指輪を探していたのだ。 図書館や庭園を一人で歩き回っていたのも、指輪を探していたからだ。 約束を守れなくて、指輪もなくして…… オランに怒られる、見放されるのが怖かった。 その心労も重なったのだ。
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