第4話『菖蒲の花』

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第4話『菖蒲の花』

オランの願望と野望。それに応えるように…… 純粋無垢であったアヤメは、着実にオランの期待通りの変化を遂げつつあった。 ある朝、アヤメがベッドの上で目を覚ますと、隣に誰もいなかった。 半分寝惚けながら、しばらく放心していたが、ハッと我に返った。 自分の隣が空洞。それだけで、堪え難い違和感と不安感に襲われた。 起き上がって広いベッドの上を見回すが、オランがいない。 いつも一緒に寝て、一緒に起きていたのに。 (うそ……やだ……) 次の瞬間、アヤメが感じたのは、焦燥感にも似た衝撃と衝動。 オランがいない。たった、それだけの事なのに。 (……オラン、どこ!?) 慌てて布団から抜け出てベッドから下りると、目の前を塞ぐカーテンを開けて寝室から飛び出した。 その先は、いつもオランが腰掛けている豪華な椅子のある、あの部屋に直結している。 オランは、いつものように、あの椅子に腰掛けていた。 そのすぐ隣には、ディアもいる。 アヤメが裸足のまま、息を切らして部屋の入り口に立ち、二人を交互に見た。 「よぉ、アヤメ。なんだ、寝間着のままじゃねえか」 「おはようございます。アヤメ様」 オランとディアは、いつもの調子だった。 しかし、いつもの調子でないのは、アヤメの方だった。 まるで、鬼気迫るような顔をしているのだ。 何事かとオランが問う前に、アヤメが早歩きでオランの前へと歩み寄る。 そして、椅子に腰掛けたままのオランの正面で、身を屈めた。 「良かった、居て………おはよう、オラン」 そう言うと、少し躊躇うようにして目を伏せ、一瞬だけ恥じらった。 「朝のキス……しなきゃ」 そう言った次には、自然な流れで……オランに口付けたのだ。 すぐ横にディアもいるのに、人目も気にしない。むしろ視界に入っていないようだった。 これは、おそらく……まだ半分、寝惚けているのだろう。 ここまで一言もしゃべる間もないオランとディアは、ただ成り行きを静観している。 オランからスッと離れるとアヤメの表情が一変、安心したかのように柔らかく微笑んだ。 「着替えてくるね」 そう言って、今度は静かにゆっくり歩いて寝室に戻って行った。 アヤメの一連の行動の後、その場が、しばらく静寂に包まれた。 少ししてようやく、ディアが静かに口を開いた。 「魔王サマ、アヤメ様に一体何を教え込ませているのですか?」 「一般常識だぜ。なかなか物覚えがいいだろ。アレは完全にオレ様の虜だな」 「私には単なる調教にしか見えませんが」 ディアは感心せずに、冷ややかな視線をオランに向けた。 「可愛い女だ、ククッ……」 オランは満足そうにして笑っている。 その日のアヤメは少し寝坊して、たまたまオランと一緒に起きれなかっただけの事。 『朝、起きたら必ずキスをする』という、オランが教えた嘘の習慣。 今やアヤメは、それを実行しなければ不安になって、落ち着かない。 自然と、心と体がオランを求めるようになってしまったのだ。 アヤメの中では、オランとの『口付け』の行為は、日課という日常になってしまっていた。 そうなるようにアヤメに教え込んだのは、オラン自身だ。 しかし、口付けの瞬間の恥じらいの表情は変わらずな所が、オランをどこまでも煽る。 純粋無垢なアヤメは、そんな毎日の積み重ねで、着実にオランの思い通りの色に染め上げられていく。 アヤメが王妃になる頃には、一体どんな変貌を遂げてしまうのか。 ディアは、これからの魔界を背負う未来の夫婦に、一抹の不安を覚えた。 その日の一番明るい時間、オランはアヤメを中庭へと連れ出した。 寝室からも繋がっているテラスに出ると階段があり、そこを下りて行くと、城の中庭へと辿り着く。 オランに手を引かれてアヤメが中庭の前に立った瞬間、目の前に広がる光景に息を呑んだ。 一面が、紫色の一色だった。 そこに広がるのは、先が見えない程の紫色の花で埋め尽くされた花畑だった。 アヤメは、その色を見ただけで、それが何の花であるか分かった。 「これって、菖蒲(あやめ)の花よね!?」 嬉しくなって、満面の笑顔でオランを振り返る。 「ああ。アヤメの名前と同じ花だ」 「大好きな花よ、嬉しい…!!もしかして、私の為に?」 「当然だろ。正確には、菖蒲(あやめ)に似た品種を魔界で取り寄せた、って所だな」 アヤメが花畑の中心に向かって伸びた道を歩いて行き、オランがその後を続く。 真ん中まで辿り着くと、二人の周囲は菖蒲(あやめ)の花に完全に囲まれた。 二人と、菖蒲(あやめ)。その他は何もない。 それを見計らってか、オランが背後からアヤメの腰に両腕を回した。 アヤメはふっと力を抜いて、オランに体を預けた。 本当は、菖蒲(あやめ)の花が嬉しかったのではない。 その優しさと、一緒に居る時間の心地よさ。そう、何よりも好きなのは…… 「ありがとう、オラン。……好き」 「あぁ?聞こえねえなぁ~」 「いじわる」 好きなのは、すでに知っている。アヤメの心は完璧に見通しているつもりだ。 オランは、こんな事では満足しない。 オランの本当の野望は、アヤメの口から『愛』という言葉を言わせる事なのだ。 『好き』は『愛』を知らなくても言える言葉。 オランが欲しいのは、『愛』を知った上での『好き』なのだ。 だが、『愛』の意味だけは、直接、言葉では教えてやらない。 オランはアヤメを自分の方に向かせた。 それが何を意味するのか、さすがのアヤメでも分かるようになってきた。 「オラン、今、お昼だけど……」 朝と夜のキス以外にも習慣があるのだろうか?と、空気すら読めないアヤメの思考は今も純粋だ。 「アヤメ、『キス』に時間や回数の制限は無いんだぜ」 「ふふっ…なんだか、それって贅沢ね」 アヤメの発想と感覚は、相変わらず予測が出来い独特なものだった。 アヤメは少し顔を赤らめて、視線を逸らした。 いつも、そうだ。オランはこの表情が見たくて、愛しくて、焦らしたくなる。 だから、意地悪なオランは、すぐにはしない。 アヤメの方が焦れったい、と思うまで待ってやるのだ。 だが……その待ち時間が、仇となった。 焦れったくなってしまった人物が他にも、もう一人いた。 「魔王サマ、仕事のお時間です」 突如、聞こえた誰かの声に、二人は同時に後ろを振り返った。 いつの間にか、二人の背後にはディアが立っていたのだ。 わざと気配を消していたのか、オランですら気付かなかった。 「お昼の休憩にしては長過ぎます。お戻り下さい」 いつものように無感情で淡々と言うディアを、オランは睨みつける。 アヤメは恥ずかしさのあまり、背中を向けてしまっている。 「テメエ……今、どれだけの重い罪を犯したか分かってんのか?」 「分かりませんね。なんせ私は獣ですから」 魔王と張り合えるのは、何者も恐れはしない、この魔獣くらいだろう。 この魔獣にも少々、調教が必要かもしれない。 菖蒲(あやめ)の花で埋め尽くされた庭園。 それは、アヤメへの想いで埋め尽くされた、魔王の心の象徴。 白い菖蒲(あやめ)は、かつて純白であった、少女の心の象徴。 いつかは、この庭園のように紫の菖蒲(あやめ)で埋め尽くされるのだろう。
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