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青年は、オランから数歩後ろに下がって距離を取った。
オランの正面で片膝を突き、もう片膝を起こして頭を下げる。
それは、まるで君主に跪くような姿であった。
「私は魔王オラン様を主として、その魂に永遠の忠誠を誓います。契約の証を、ここに」
青年はオランの左手を取ると、手の甲に軽く口付けをした。
これが、魔獣との『契約の証』なのだ。
魂に誓ったその契約は、オランの魂が存在する限り、永遠に有効となる。
この瞬間、オランは青年の『契約者』となり、青年はオランに絶対服従となった。
後に青年はアヤメとも、この場所で契約を交わす事になる。
オランは、ようやくいつもの余裕の笑みを浮かべて青年を見下ろす。
「よし、命令だ。まず言葉遣いを改めろ。敬語を使え」
「はい。承知致しました」
主従関係が確固たるものになれば、後の話はスムーズであった。
「次は名前だ。今からテメエの名前は『ディア』だ」
「はい、承知致しました。…その名は、どのような意味で?」
「『悪魔』と『狩猟犬』だ。テメエにピッタリだろ」
「……はい。恐れ入ります」
ディアは頭を下げて、微かに口元を緩ませた。
名前に興味はなかったが、そこにオランの含みを感じ取ったからだ。
犬の魔獣『魔犬』でありながら、人の姿で魔王に仕える。
魔王の犬として生きる。全くその通りの意味であった。
そしてオランも、側近を置くなら最強の者を選ぶと決めていた。
オランは自らの手で、己の願望を叶えたのだ。
オランはマントを翻し、ディアを導くように城の方へと向く。
ディアの方を振り向くと、心底楽しそうな『悪魔の笑み』で言い放つ。
「魔界一の悪魔・オラン様と、魔界一の魔獣・ディア。最高じゃねえ?」
その笑顔に引っ張られたのか――
ディアは言葉ではなく、同調とも同意とも取れる、心からの笑顔を返した。
その後、ディアは城の図書館の本を全て読み尽くした。
魔界に関する資料や書類などにも、全て目を通した。
僅かな時間で魔界の全てを理解し、把握しきったのだ。
ディアの知能と処理能力には目を見張るものがあった。
難なく、魔王の有能な側近としての立場を確立したのであった。
オランはディアを『側近』に選び、ディアはオランを『主人』に選んだ。
オランとアヤメが、互いを愛する人に選んだ、人生の『最高の選択』。
オランとディアの間にも、『最高の選択』が存在したのだ。
ディアの話を聞き終えるのと同時に、アヤメはコーヒーを飲み終えた。
空になったカップをソーサーに置くと、ディアに視線を向けた。
「じゃあディアさんは、契約したからオランと一緒にいるの?」
「はい、そういう事になりますね」
それを聞いたアヤメは、急に悲し気に瞳を潤ませた。
ディアは何か間違った回答をしたかと、内心焦り始める。
「じゃあ、私の事も……契約だから、仲良くしてくれてるだけなの?」
ディアは、アヤメとも契約を交わしている。
それは、魂に忠誠を誓う事で永遠に共に在りたいという、ディアの強い願望の表れでもあるのだ。
その真意を知らないアヤメは、今にも泣きそうな顏をしている。
妊娠中は、何かと精神が不安定になるのだ。
「決して、そういう訳では…!確かに、契約ではありますが、その……」
「ディアさん、私やオランの事、本当は嫌い?」
「違いますよ…!好きです……!」
そこまで口走ってしまって、ディアは慌てて口を噤んだ。
決して口に出すまいとしてきた、ディアの感情のままの本音であった。
まるで誘導尋問のようなアヤメの問いかけに、導き出されてしまった答え。
だがアヤメは、その『好き』の意味を、単なる好意として受け止めた。
「良かった…私も好きよ」
「え……?」
「私もオランと契約してるけど、契約じゃなくたって二人とも好きよ」
「あ、……はい……恐縮、です……」
ディアは一瞬、心臓が飛び出そうなほどの動悸を起こした。
しかしアヤメの口調の軽さが真意を物語っており、ディアは冷静さを取り戻した。
アヤメは人間界の森でオランと出会った時に、一方的に『契約』を交わされた。
それは主従の契約ではなく、悪魔が人間界で活動するために必要な生命力を吸収する代わりに、契約者の願いを叶えるというもの。
あの時、契約の証として強引に奪われた唇が、初めての『キス』であった。
今でも、アヤメはオランの『契約者』。
アヤメとオランとディアは、互いに『契約』という名の絆で結ばれているのだ。
「あっ!もう、こんな時間。ディアさん、お話してくれてありがとう」
「はい。お休みなさいませ」
アヤメは、ゆっくりとソファから腰を上げる。
立つと一気にお腹に重みを感じて、お腹を抱えるようにして両手で触れる。
食堂の出入り口まで歩くと、そこにオランの姿があった。
オランが、この時間に食堂に来るのは珍しい。
「あれ?オラン、どうしたの?」
「あぁ、ちょっとな。アヤメは先に戻ってガキを寝かし付けとけ」
「うん、分かった」
「ゆっくり歩け、転ぶなよ、命令だぜ」
「は~い」
明るく返事を返すと、アヤメは寝室へと戻って行った。
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