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アヤメと魔物の睨み合いが続いた。
どちらも動かず、時間だけが静かに流れて行った。
やがて、その瞳から敵対心がないという事をお互いに感じ取って、一気に気が抜けた。
魔物はその場に足を崩して座り込み、同時にアヤメも座り込んでしまった。
疲れたのと同時に安心して気が緩み、アヤメは無意識に微笑んでいた。
「ふふ……疲れたね、あなたも休む?」
アヤメは恐れもせずに魔物を手で触れて撫でると、さらに体を寄せた。
魔物もアヤメに顔をすり寄せた。どうやら懐いてしまったようだ。
「なぁに和んでんだよ、テメエら」
突如聞こえてきた聞き慣れた声に、アヤメと魔物が同時に顔を上げた。
そこには、オランが魔界の王らしく堂々と威厳を放って立っていた。
「寂しいからって、魔物と遊んでいたのか?大した女だぜ」
「オラン、違うの…!この子、悪気はないの。きっと迷子なのよ」
アヤメが一生懸命になって魔物を庇うものだから、オランは可笑しくなって笑った。
「迷子だってよ?無様だなぁ、ディア」
「えっ………!?」
オランが魔物に向かって『ディア』と呼んだので、アヤメは驚きに声を上げた。
「コイツはディアだぜ。どうやら魔獣の姿に戻ったようだな」
ディアは魔獣に戻ると自我を失くし、完全に野生に還る。
だが、この姿でもオランには絶対服従なのだろう。体を小さく丸めて大人しくしている。
アヤメは信じられないと言った様子で、普段の青年・ディアを思い浮かべて、目の前の魔獣と見比べてみる。
確かディアの魔獣の姿は封印されていて、オラン以外には封印を解除できないと言っていた。
「ディアさん、どうして魔獣に戻っちゃったの…?」
「満月の夜に限って、たまに戻っちまうんだよなぁ。面倒くせえ」
アヤメは空を見上げた。そう言えば確かに、今夜は見事な満月だ。
「アヤメ、よくディアに食われなかったな?……いや。ディア、よく食わなかったな」
「えっ…!?えっ!?」
軽々しく恐ろしい事を口にするオランに、アヤメは今になって恐怖を実感して震えた。
「ディアは人に懐くような魔獣じゃねえ。誰でも見境なく食らう凶暴なヤツだ」
確かに、その獰猛な『獣』特有の鋭い爪と牙を見ると、説得力がある。
「だが、ディアはアヤメを認めたようだな。オレ様以外に懐いたのは初めてだぜ」
それに万が一、ディアがアヤメを襲ったとしても、指輪の魔力がアヤメを守る。
だからこそ、オランはアヤメを助けずに、ディアの事も『試して』いたのだ。
「ホラ、戻れ、ディア」
オランは魔獣に向かって片手をかざした。
何か呪文のようなものを呟いていたが、アヤメには聞き取れない。
最後の言葉だけは、ハッキリと言い放った。
「封印」
すると、一瞬にして魔獣の姿が光に包まれて、飲み込まれたと思ったら……その姿が、みるみる収縮していく。
人と同じくらいの大きさになると止まり、やがて光も消えて、そこに青年の姿が現れた。
いつもの、人の姿のディアだ。
ディアは途端に、地に両膝を突いた。
「魔王サマ、アヤメ様、申し訳ありません……!」
いつも魔王をも恐れないクールなディアの弱さが露呈されて、アヤメは逆に申し訳ない気持ちになった。
オランはディアの前に立ち、容赦なく冷たい瞳で見下ろした。
「だから、満月の夜は外に出るなっつってんだよ」
「……はい、失念しておりました……」
元はと言えば、アヤメを心配してテラスに出てしまった事が原因で、悪気など無かった。
そもそも魔王にしか制御できない凶暴な魔獣を、あえて側近にしたのは何故か。
いや、『だからこそ』オランは、ディアを側に置いたのだ。
それが、ディアを救う唯一の手段でもあった。
「だが、いい事が分かった。アヤメはディアの契約者にも相応しい器だ」
「ディアさんの契約者?」
普通の人間なら、魔物を目の前にした時に取る行動は『逃げる』か『攻撃』の、どちらかだろう。
しかしアヤメは『何もしない』という、誰も傷付かない方法を選んだ。
魔物も、花も、自分をも守ったのだ。
アヤメは、地に膝を突いたままのディアに向かって問いかけた。
「ディアさんは、オランと『契約』してるって事ですか?」
だが、その質問にディアが答える前に、オランが口を挟んだ。
「アヤメ」
「はっ、はいっ!!?」
突然、強い口調で呼ばれた事に驚いて大げさな程の返事をする。もはや条件反射だ。
「ディアにも敬語を使うな」
「う、うん……分かった」
オランの一声で、アヤメの敬語口調も封印された。その従順さは見事だ。
「ディアさんは、オランと『契約』してるの?」
再び、口調を言い直してアヤメはディアに問いかけた。
「はい。魔王サマとは契約を結び、主として忠誠をお誓いしております」
つまり『契約者』はオランの方なのだ。
あれ?とアヤメは思い出した。悪魔の『契約の証』って、確か『口付け』だったのでは…?
オランと出会った日に『契約』と称してキスされた、あの時の記憶が蘇る。
「ディアさんは契約の時に、オランにキス……したの!?」
「えぇ、しましたね」
「ええええぇっ!??」
アヤメの驚き方が面白くて、オランは声を押し殺しながら笑っている。
「誰も、唇にしたとは言ってねえだろうが」
アヤメは少しホッとしたが、唇以外って…?ほっぺた?おでこ?想像してみるが、それはそれで衝撃である。
「私は、ここでアヤメ様と契約を結びます。魔王サマ、許可を」
「いいぜ。見届けてやる」
ディアはアヤメの正面で片膝を突き、もう片膝を起こして跪いた。
それは、まるで君主に忠誠を誓うような姿で。
「私はアヤメ様の魂に永遠の忠誠を誓います。契約の証を、ここに」
ディアはアヤメの左手を取った。薬指の婚約指輪が、月を反射して小さく光った。
そうして……アヤメの手の甲に、口付けをした。
これが、魔獣との『契約の証』なのだ。
だがアヤメは、難しい事など考えなかった。
今日、初めてディアの本当の姿を知り、心から分かり合えた気がして嬉しかった。
アヤメは少し照れながら、跪くディアの視線の位置まで屈んで微笑んだ。
「これからもよろしくね、ディアさん」
「はい。アヤメ様」
ディアも一瞬、照れたような表情を見せたのは……気のせいだろうか。
こうして、オランと同様に、アヤメもディアの『契約者』となった。
魔獣は契約者となった者を『主』とし、絶対服従を誓う。
それは、例えディアが魔獣の姿に戻って自我を失おうと、効果は失われない。
だが……その契約がなくとも、3人はすでに分かり合っていた。
では、この『契約』をした本当の意味とは、何なのだろうか?
「さて、アヤメ。もう夜更かししすぎだ、戻るぜ」
「うん。オランが居ないと眠れなかったの……だから…抱いて?」
アヤメの言う『抱く』とは『抱きしめる』の意味である。
上目遣いで、あまりにも可愛い『おねだり』をする婚約者に、オランは衝動が抑えられなくなった。
場所も構わず、ディアの目も気にせず、アヤメを強く抱きしめた。
今夜はもう、理性を抑えるのは不可能だろう。
「よし、今夜はキスよりも良い事を教えてやるぜ」
「え、今度は何?また新しい習慣?」
「魔王サマ、度が過ぎます!!アヤメ様も喜ぶ所ではありません!」
すかさず、ディアが厳しい口調で二人を制止した。
オランは、アヤメを『契約者』にしたが、ディアの『契約者』でもある。
アヤメは、オランとディアの『契約者』となった。
ディアは、オランとアヤメを『契約者』とした。
魂が存在する限り、契約は永遠の誓いとなる。
ここに、3人の『永遠の絆』が繋がった。
ディアが、アヤメと契約を結んだ本当の理由。
それは、契約時のディアの『誓いの言葉』にある。
『アヤメの魂に誓う』という言葉。
『魂』が存在する限り、例え体が滅びようと、名が変わろうと、契約は永遠に有効なのだ。
それは、いつか訪れる遠い未来の『魂の輪廻』の時まで、共に在りたいと願う儀式だった。
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