【最終選考】土曜日の朝の匂い【落選作品】

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 賢史行きつけの喫茶店だった。レトロな純喫茶の佇まいで雰囲気は抜群に良い。駿太郎もいたく気に入り、盛岡にくるたびに立ち寄るようになっていた。もみあげから顎まで髭をつなげた厳つい男の言動とは思えなくて、鼻で笑ってしまった。  五年目。大きな喧嘩も諍いもなく今までやってこられた。すべて思いやりと価値観の合致の賜物だと思う。結婚という選択肢が存在しないが故に、年齢を理由とした焦りや損得勘定がないせいもあると思う。気持ちと信頼関係だけが愛情の理であって、条例に関心が持てなかったのは、異性愛者のように愛情を枠にはめられるような気がしたからかもしれない。 「引っ越しは届け出してからでもいいかな、うん」  駿太郎は一人で納得し、缶を垂直に立てて一気にアルコールを流し込んだ。もう少し喋ったら寝るだろう。明日の朝にはすべて忘れている、いつものパターンだった。 「世の中にはな、転勤で次の週から別の遠い県に飛ばされる奴もいるんだよ。今の仕事が一段落したら探してみるから」  転勤族の父を持ち全国行脚していた彼は、引っ越しというものに抵抗がない。しかしやっと転勤族を卒業した両親が、地元を離れることを快く思っていないことを知っていた。駿太郎自身は、散々転勤に付き合わされたのだからという大義名分があるという。 「いい大人だろ、付き合っている奴といっしょに住みたいっつってダメって言われる筋合いねえもん」  お互い家族にはすでにカミングアウトしている。幾度とない説得と諦念の促しを試みた結果、一定の理解を示してくれてもいる。ひたむきに現状維持してきた五年だが、突如岐路に立たされたような気がした。
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