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ヘルツ警部はまたコーヒーを飲んだ。もう冷めている。しかしその冷たさは今から告げる事実よりも温かった。
「ウィーン警視庁に足を運ぶ人間は多いが、裏口を知っている人間は非常に限られている。それに共犯を命令出来るほどの権力を持ち、胸像を飾るような家に住み、自分の世話を人に任せることが出来るのは……軍隊の上層部か、警察関係者の長官クラスの人間だけだ。……今の総監や長官殿とは考えたくないから今は退職され、隠居暮らしをなさっている人間だろう……彼はあの女神像で人を殺し、家事使用人と一緒に死体を埋めるなり処分した。遺体を始末して気が緩んだのか血を浴びた彼女の始末は家事使用人に任せた。……ところが怖くなった。そして同時に殺人と殺人者に成り果てた主人を嫌悪した。彼女をウィーン警視庁に届けることは彼が出来る精一杯の告発だったんだ。……しかし軍や警察に籍を置いていた者が殺人者だと知られれば両者の権威は失墜する。わたしがこの推理を上の方々に話したらわたしは左遷させられるかもしれないな」
ヒューゲルが大きな音をたてて立ち上がった。「分かりませんよ、そんなこと」
「ヒューゲル」とヘルツ警部は諭すように口を開いた。「人を殺した人間に守られたがる市民などいない。……しかしヒューゲルがこれから行う捜査は殺人の痕跡を拾うことは出来る。殺人の痕跡を少しでも見つかれば死者を悼むことは出来る。わたしたちが逮捕出来ない時は神が雷を落とすだろう。……無力なわたしに出来ることはこれくらいだ。ヒューゲル、警察官たる者、殺人事件の際は犯人の逮捕以上に死者を悼む気持ちを忘れるなよ」
ヒューゲルが行方不明者の捜索に当たっている最中、ヘルツ警部は撤収命令を受け取った。夥しい血痕はあったけれど実物が無い以上、事件性の有無は判別し難いと見做され、捜査を担当したヘルツ警部とヒューゲルは休暇を与えられた。イースター祭直前だとはいえ、不自然だった。
しかし彼女は事件を忘れた訳ではなかった。ウィーンが占領された1938年、その年の大雨がーーー名前は明かせないがーーーとある高官の屋敷の庭園に埋められていた彼女を発掘したのだ。屋敷を司令部にしていたナチス党は驚き慄きながら彼女を調べ上げ、持ち主の元高官を徹底的に糾弾、断罪し、彼の名前を警察官名簿から抹消した。やがて人殺しの屋敷を司令部にするのは悍しいと撤退して行った。
記事には彼女の正体も書いてあった。ヒューゲルは新聞を置いた。そのテーブルにはナチス党の台頭を知らないまま亡くなった幸運なヘルツ夫妻の写真が置いてある。
神の身で有りながら人を殺す武器にされ、処分の憂き目に遭い、「落とし物」という名目でそれを免れたと思ったら今度は土に埋められて、人間に振り回されてばかりだった女神はやっと人間に罰を与えることが出来たのだ。……しかしその女神が本当のネメシスであったのなら、自らを悍しいと罵ったナチス党にも必ずや神罰が下るだろうとヒューゲルは予感せずにはいられなかった。
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