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ヘルツ警部はヒューゲルを見た。「あの女神像のスケッチはあるか?」
「! はい、それは盗まれずに……というのもスケッチ係のヒンメルが家に持ち帰ったからです。本当は駄目なのに」
「怪我の功名だな。もともとあいつは画家になりたかった男だから、描くことを辞められないのだろう。まずはそのスケッチブックを見よう」
エーミール・ヒンメルは警察官の中では珍しく上流階級の教育を受けたウィーン市民で、画家になりたがっていたが家の没落で断念して警察官になった。彼の作成する似顔絵や証拠品の写生には定評がある。ヒンメルはヘルツ警部に叱られると思っていたようでびくびくとした様子だったが、そうでは無いと分かるとあっさりとスケッチブックを渡した。尤もその時に「次はするなよ」とやんわりと釘を刺すのは忘れなかったが。
ヘルツ警部はヒューゲルに盗難課に行かせるとスケッチブックに描かれた真っ正面の、横顔の、後頭部の女神をじっと目を凝らして観察した。彼女は真っ正面から血を浴びている。彼女が偽浮浪者によってウィーン警視庁に届けられた理由も去ることながら、彼女が元居た環境が知りたかった。実物が無い以上、ヒンメルのスケッチブックだけが頼りだった。しかし髪型や表情などどうでも良いヘルツ警部には彼女が人間の貴婦人ではなく、神話中の女神かもしれない、ということしか分からなかった。
「彫刻にサインは無かったのか?」
「それが何処にも見当たらなかったんです……無名の彫刻家だったんでしょうか?」
「無名なら尚更サインを残したがることはヒンメル、君が一番知っているだろう」
「はい」とヒンメルは頷いた。「……そうなると削ったんでしょうか? ここに届ける前に?」
「……そうなるな」とヘルツ警部はスケッチブックを閉じてヒンメルに返した。
「女神像、ないし彫刻品の盗難届はありません」とヒューゲルが報告した。
「そうか……」とヒューゲルは嘆息した。「あるとは期待していなかったが、そうなるとそこに女神像が無くても全く不審に思わない環境に置かれていたことになる。しかしあの胸像はどう見ても完成品だ。従って何処かに必ず飾られていた筈なんだ」
「そうなると……人目のつかないところとか?」
「ヒューゲル、胸像の定義が分かっていないな。芸術品は見せびらかす為にあるんだ。家や階級の格、教養を披露する為にあるんだ。人目に触れなければ意味が無い。あの女神像はそうしたところにあった。だから盗まれたんだ。というよりも取り返したんだ。元の場所に戻す為に。……ヒューゲル、今日の昼食はわたしの家で食べてくれ。色々出す指示を盗み聞きされたくない」
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