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フタさえ閉めておけば妻はそれを開けることをしない。夫婦と言えど他人であり、自分との境界を心得ている妻のことを賢く素晴らしい人だと思う。
けれどそんな人だからこそ、弁も立つ。ある日ぼくら夫婦は些細なことで口論となり、妻は家を出て行ってしまった。
その時のぼくの取り乱しようといったらなかった。本当に、後から思い返してもみっともなくて情けない。
妻を探し、友人に電話をかけたり実家の方にも妻と喧嘩した事実をふせて「そちらに遊びに行ってないですか?」と探りを入れたりもした。
好きなカフェにもよく行くスーパーにもいない。途方に暮れて夜遅くに帰宅したぼくは、電気もつけずにテーブルを見つめてほとほとと涙をこぼした。
すると、暗がりの中から近づいてくる人の気配を感じた。顔を上げてみれば、そこには妻の姿があった。
「……おかえりなさい、まぁくん」
正孝というぼくの名をそう呼ぶ響きにぽかんとし、次いで、喜びが溢れた。……なんだ、そうか。
「家のどこにもいないと思ってたけど、ずっといたんだね」
妻はぼくの慌てる様子を物陰から眺めていたのだろう。ぼくを困らせるために隠れていたのだ。
「どこにも行ってなくて良かった。この家の中にいてくれて良かったよ」
事故に遭って死んでしまったりなどしたら、どんな姿でももう一生会えなくなってしまうところだった。ぼくは彼女を抱きしめた。
ここに――ぼくのそばにいてくれるならそれだけでいい。
電気をつけて部屋が眩しくなるのは繊細な彼女が嫌がると思ったので、消したままで寄り添う。幼虫のいる箱には逆に、明るく照らしてあげるためのライトをつけてあげなくちゃな、と考えながら。
「これからは君をもっと大事にするね」
囁くとうん、と頷いてくれた。
――子どものころから、ミヤコちゃんの怯えた表情が好きだった。びくびくと震える様子が好ましく、ぼくの好きに扱いたいと思っていた。けれど、こうして目の前で妖しく微笑むことができるようになった彼女のことも心から素敵だと思える。
隠れていた妻を、ミヤコちゃんは見つけて喰らったのだろう。
そうしてミヤコちゃんはぼくの妻となったのだ。
いつ起きるかはわからなかったけれど、こうなる想定はしていた。
代わりに鬼となったあの人には気の毒かもしれないけれど、ぼくの元にいてくれるなら、ぼくはずっと彼女を慈しみ愛することができる。
長年慈しんだミヤコちゃんの手を取って笑いかける。幾分心が壊れた感じの様子が瞳に宿っているけれど、ぼくに返してくれる視線には執着と恋慕が込められていた。その視線を受けて、充足感が満ちていく。
家の中に置かれた箱から、がさごそと音が聞こえる。
ミヤコちゃんは暗がりの中、満足そうに笑っていた。
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