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一コマの講義をサボったあとにも、まだ講義が一つ残っていた。新本が次の講義に出席するために席を離れたタイミングで、帰ることを決めた。
「キタッ」
キャンパスを出ようとしたところで、呼ばれた。思わず固まってしまうが、無理やり半身で振り返る。水際が手を振ってこちらに駆けていた。
「講義、休んだっしょ」いつもより弾んでいる。
「休んだ」
「単位やばいくせにー」トートバッグからノートを取り出す。「内容メモっといたからさ」緑色の大学ノートが差し出された。
えっ、と漏らすと、今回だけだからね。念を押された。ありがたく受け取る。
「あのさ、その代わりって言っちゃあれだけど、一つ頼めない?」
「頼み?」語尾が裏返った。
「そんな身構えないでよ」破顔する。
え、あ、ごめん。謝りながら、指先で自分の頬に触れる。
「たいしたことじゃないんだ。ただ――」明るさが引っ込み、視線があわただしくなる。「聞いてほしいことがあるの」
すぐに言葉を返せなかった。たとえ水際が相手でなかったとしても、同じような反応をしてしまっただろう。何かしらの相談を持ちかける人間の、やや鬱っぽい雰囲気はいつも僕の中から語彙を奪っていく。それでも何か、訊き返すようなセンテンスを絞り出した。
「私」
息をのむ。声色が一変した。透き通っているのに一本芯の通った、はっきりとしている声音――あれ?
「実はね」
目が合った。上目遣いの中で揺れる瞳に、僕は思いがけなく後ずさる。なぜだかどこかで見たことがある。
「キタのことが好き。ゼミで一緒になったときから、一目ぼれしたの」
用意していた予感が、まっさらになった。動かそうとした口は、ひたすらにまっすぐな視線の前に力を失う。
水際が、僕のことを好き? なぜ。どうして僕なんだ? 僕が今までに水際に対して何かしたことがあったか? 新手のドッキリとか、罰ゲームとか、そういうものではないのか? 目まぐるしく、思考が分散していく。
「キタ」
我に返る。眉尻を下げた水際がいた。息をのむ。すると困った表情が、無理やり口元をほころばせた。
「こんなの、困るよね。いいよ、聞かなかったことにして」
――いいや
なぜか、首を振っている居酒屋での記憶と重なった。まったく違う顔のはずだった。だがどうしても、顔が思い出せない。それでいて、水際によく似ていることだけは確信が持てる。気がつけば離れようとする手首をつかんでいた。
「水際、僕は――」
やがて暗くなった顔が一時的な衝撃を挟み、小さな花を咲かせていく。
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