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翌日以降、大学で顔を合わせても彼女の態度に変化はなかった。もっとも、水際の変化を語れるほど彼女のことを知っているわけでもなかった。どうして告白を受けいれたのだろうか。今さらながら考える。
大きな双眸が輝いているからだろうか。色素の薄い瞳は、誰かと話しているときにきらきらと反射する。
元気で明るいからだろうか。はきはきとものを言い、ポジティブ思考で友人も多い。無駄な人づき合いを避けてしまう僕が、人脈の広い水際との縁を切らずにいられたのは、ひとえに彼女の分け隔てのない明るさのおかげだった。
こんなことをつき合う前から知っていたか。
否、知らない。つき合った理由は、まったく別だった。あのとき、何かと彼女が重なった。まったく似ても似つかない、何か。
水族館に行く当日の朝、ラインがきた。豊島だった。ファイルを受信している。僕は一瞬固まった。固まったことに、かすかに驚いた。犬が死体を食べる話の題名がつけられているワード文書。毎度恒例の、赤入れの依頼ではないか。何も、身構えるような話ではない。
保存期間に二週間の猶予がある。二週間以内には、パソコンからラインに入って原稿を拝むだろう。
了解。一言を送信した。
水際は行き先こそ決めたものの、待ち合わせ場所までは決めてくれなかった。当日の朝になっても明確な指定がない。駅でいい? ラインで尋ねると、水族館にしようよ。現地集合を提案される。了解のりょまで打ったところで、続けざまにメッセージが飛んでくる。
先に水族館の中で待ってるから――
――見つけて。
僕は思わず苦笑してしまう。懐かしい提案だった。僕はこういった類の待ち合わせを、よくしている。
了解。改めて送信する。
スコン、と拍子抜けした通知音と同時に、別の人間とのトークが進行する。水際のトークから離れる。豊島徳美のやり取りが更新された。スタンプが送信されました。
スタンプを確認しようと親指を伸ばしたが、タップする直前で順番が入れ替わった。水際を開いてしまう。くまのスタンプがハートを自分の周りにまき散らしている。
スマートフォン上部に目をやる。げっ、と思わず声が出た。七時五十六分。出発時刻を十五分ほど遅れている。ラインを閉じた。ショルダーバッグのひもを無造作につかんで家を出る。
開館時刻から十分ほど遅れて、サンシャイン水族館の入り口に立った。チケットを買う前にスマートフォンを確かめる。なんの通知もきていなかった。
購入したチケットを処理してもらう。進んでいくと、道は二手に分かれていた。このまま外に行くか、中に入るか。順路としては中に違いなかった。
中に入ると、一瞬足が止まった。照明が落とされた空間は、異界だった。ガラス扉をたったの二枚しか隔てていないのに、外とは違う静謐な空間が広がっている。水族館は、こういう場所だったろうか。もっとにぎやかなイメージがあった。
けれどそういえば、最後に水族館に行ったのはいつの話だろう。高校二年生に行った沖縄の修学旅行な気がする。同じ班の女子がサメのぬいぐるみを買うのに合わせて、なぜか買わされた。これでうちら、絶対忘れないじゃん。女子の一人がサメを抱えていたずらっぽく笑った。僕の班は、男女ともに仲がよかった。
否、友だち以上だった。男子の一人はサメのぬいぐるみを抱えて笑う女子とつき合っていた。僕はその女子の親友のことが好きだった。おっとりとしているけれど、悪乗りが大好きな女の子。
あたりを見渡しながら、水槽の間を通り抜ける。会館間際ともあってか、人が少ない。様々な色の魚が、ときにはラグーンをイメージした水槽で、ときには澄んだ水の中で悠々自適に泳いでいる。
大きな水槽の前に、人だかりができていた。それは水槽というよりも、ガラス張りの向こう側に海が広がっているといった方が正しい。エイが尾っぽで軌跡を描きながら舞い、サメが確かな存在感を抱いて周遊する。他の魚たちも種で一カ所に固まることはなく、好き勝手に泳いだり砂をつついたりしている。
――魚には、派閥ってあるのかな。
美ら海水族館で、僕の想い人は静かにこぼした。そりゃあ、弱肉強食だろ。水族館でも小さいのはサメに食われるって聞いたことある。知識をひけらかすと、彼女は眉尻を下げて笑った。
――じゃあ、魚にもなりたくないね。
ガラス張りの向こうに、人がいた。ダイバーだ。水槽の前に立っているスタッフが、エサやりショーが始まるのだと声を張っていた。人だかりに目を向ける。前列は子どもたちが埋め尽くしていた。場を離れる。
クラゲトンネルに入る。名の通り、アーチ状になっていた。水槽の中で透明なくらげが形を変えながら浮遊している。トンネルの終点に、水際は立っていた。棒状の水槽の中を眺めている。マッシュルームのようなクラゲだった。
お待たせ。声をかけながら、隣に並ぶ。おはよう、キタ。満面の笑みでこちらを見上げて挨拶をする。
「ごめん、待たせた」
「いつものことじゃん」
「え――?」
「だから、いつも。この前の御苑のときだってそうだったじゃん」
水際と、新宿御苑――記憶をさかのぼってみたが、思いあたらなかった。一緒に新宿御苑に行ったのは、豊島だ。そういえば、豊島のラインを確認していない。彼女の送ってくるスタンプはユニークだ。
「もしかしてキタ、覚えてないの?」
返事に詰まる。否定するべきだ。面倒ごとを避けるには。だが記憶に関する嘘は、のちのちも持ち出されたときにボロが出てしまう可能性が高い。
「御苑に行ったことは覚えてるけど」
ただし、誰ととは限定しない。
「そっか」再び水槽に視線が流れる。「まあ――」
目の色が普段よりも濃く見えるのは、照明が落ちているからだろうか。底抜けに明るい表情が消えたからだろうか。妙にゆったりと水槽に触れたからだろうか。声音が大学では聞いたこともないくらいに一段と落ちついたからだろうか。
「――まだだよね」
僕は水槽に触れる指先を眺めながら、小さな違和感を覚える。聞いたことのある声色だった。あたり前だ。水際がしゃべっているのだから。
だからこそ、困惑してしまう。同じ声を、まったく別の人間の口から聞いたことがある。しかもこの感覚は、今回が初めてではない。
「キタ」
不意に手を握られる。反射で手に力が入った。いつの間にか、水槽に触れていた指先は僕をとらえている。水際は歯を見せて目を細めていた。
「行こう。っていうか、最初から見直さない?」
「同感だね」
クラゲトンネルを出ると、ショーが始まっていた。
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