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恐れいりますが、相席をお願いしてもよろしいでしょうか。
読書をしていると、カフェの店員から恐縮そうにお願いをされた。さっとあたりに視線を走らせる。見える限りのテーブル席は埋まっており、僕がソファ席に座ったときよりもかなり騒がしくなっていた。おひとりさまが四人がけのテーブルを独占し続けるには、無理のある繁盛ぶりだ。
はい、と口走っていた。店員が礼を言って去っていく。
テーブルの端に置かれた伝票を引き寄せる。十三時四十二分。腕時計に目を落とす。十五時二十六分。もうすぐ入店から二時間が経とうとしている。
伝票を手近に置き、コーヒーカップの取っ手をつまむ。ソーサーを空いた片手で心持ち引き寄せつつ口をつけたブレンドコーヒーは、すでに冷めきっている。思わず顔をしかめた。
たった一杯で居座るには限界ではないか。ふと、心中で芽生えた。ため息を漏らす。今日はこの本を読み終わるまでは帰らない。そう決めて買ったはずだ。
このカフェは、ショッピングモールの二階にあった。そして今読んでいる小説は、ショッピングモールの一階にある本屋で買った。買うときに、一冊読んで帰る気になった。漫画を一冊買ってカフェで読んで帰ることはままあったが、小説はなかったから――いや、ただのかっこつけだ。カフェで小説を読むのはかっこいい。自己満足でただのエゴだ。
テーブルの左に寄って座り直し、読書に戻る。
こちらの席にどうぞ。先ほどの店員の声が、前方から聞こえた。椅子を引きずる音が、右ななめ前からする。
顔を上げたくなった。実際は、ページをめくっただけだった。物語に没頭している――と言いたいところだが、文章を追いかけても表面をなぞるばかりで内容が入ってこない。まだ数学の課題終わってなくてさ。俺も俺も。僕もレポートが終わってないな、わかるわかる、と気がつけば隣テーブルの会話に内心で答えてしまう。周りの雑音が大きくなった気がした。店内BGMはゆったりとしたジャズだ。どこの音楽だろうか。知るわけがない。知ったところで、店を出たときには忘れている。店主でさえ知らないのではないか。
ああ――もうだめだ。
本を閉じる。横に置いたショルダーバッグに詰める。
「すいません」
チャックを閉めようとしたところで、僕の思考は止まった。
正しくは、奪われた。
右前のはっきりとよく通る声は、店員を呼ぶためのもので僕に向けられたものではない。だが一本芯が通っているはずなのに、透き通っていてどことなく細く聞こえる声音。
「この季節のフルーツタルトのセット。飲み物は――」
――味の違いはわからないけれど、おもしろい名前じゃん。
ウインナーコーヒー。
「ウインナーコーヒーで」
カフェ、夏、小説、海――思い出せる。覚えている。
僕はようやく、顔を上げた。
ちょうど、店員が彼女の元からメニューを回収しているところだった。おかげで色素の薄い双眸は、吸い取られていくメニューを追っている。
肩にかかっていた髪がもう完全なショートカットになっていたり、カジュアルな服装から落ちついたオフィスカジュアル風に変わっていたりと変化はあったが、記憶に姿はあって無事に一致する。内心で息をつく。
ようやく、目が合った。いくぶんか大人びた彼女の目は、見開かれると相変わらず普段の二倍くらいになる。
一足先に気持ちを整えた僕は、表情を緩めようとして、きっと失敗した。
「久しぶりだね、豊島」
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