FORKER

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 九月になっても、夏の暑さが色濃く残っていた。豊島の服装は半袖のTシャツに変わり、髪も肩にかからないくらいに短くなっていた。  この頃には、月に一度は会う仲になった。どちらともなく連絡を取り、片方が望む場所で待ち合わせをする。先月――八月の待ち合わせは豊島の指定。新宿御苑のどこかのベンチ。探すのに骨が折れた。  今月は、僕の指定。川崎のカフェ。別にどちらの家からも近くはない。ちょうど等間隔に遠い。 「川北さんは、安全なところを選ぶ」  円卓の向こうで、豊島はA4用紙をめくりながら言った。僕が赤入れした彼女の原稿だ。  六月頃から、著者の依頼で作品に赤ボールペンで直すべきだと思うところを書き込むようになった。やり方に困ったので、新本に助けを求めた。赤入れに使われる記号を教えてはくれたが、あとは感覚だ、と突き放された。そこで僕は思い立ち、新本がいるじゃないか、とラインで豊島に申し立てた。新本には、サークルで見てもらえるから。理由にならない理由で、結局赤入れの(めい)は僕の元に戻ってきてしまった。  ここのところ豊島と顔を合わせる理由がもっぱら赤入れをした原稿を手渡すためになっている。 「安全って、何が」 「待ち合わせ場所」  えっ、と訊き返したが、一向に返事はなかった。安全と言われれば、そうなのかもしれない。僕の指定する待ち合わせ場所は、必ず合流できる場所だ。対して豊島は、場所こそ指定はするものの場所自体が広すぎて合流できないケースもある。「豊島が変なんじゃないの」 「そういう意味じゃないけど」紙の束から手を放す。パタン、と机上で倒れる。シュガースティックのごみがこちらに動く。「行きたいところとかないの」 「豊島に会えれば、どこでも」  色素の薄い双眸が、鋭さを持って差し向けられる。身体が固まった。が、矛先がテーブル脇に移り、周囲に注がれたことで緊張が解かれる。気がついた店員が、こちらにやってきた。ウインナーコーヒーの注文を承る。 「いつもそれだね。何か違うの」 「見た目」 「それ以外」 「味の違いはわからないけれど、面白い名前じゃん」  面白いというだけで、数百円を惜しまないのはとても彼女らしい。国立公園で待ち合わせるなんて、面白いじゃん。ただ文字を書くだけで自分の世界が作れるなんて、面白いじゃん。行動の基準は、面白いか否か。僕に赤入れを頼んだのも、面白いからというだけなのだろう。格段、特別な意味はないのだ。他学部で先輩の友だちで、小説を読まないタイプでありながら自分の小説は読んでくれる奇怪な人。きっとそんなところだろうか。もし僕が市販の小説を読むようになったことを知られたら崩れてしまう前提だけが、この関係を保っている。 「今回の話、川北さんとしては微妙?」 「いや――」  今回の話は、死体を食べる犬を連れている青年の話だった。  青年がある日、路地裏で一匹の犬を見つける。尻尾を振りながら何かを夢中で食らっている。近づいてみると、スーツ姿の男の死体があった。犬は彼の横っ腹を無我夢中で食らっているのだ。青年は場を離れようとするが、その犬が一年前に死んだ愛犬であることに気がつく。犬を連れて帰った。家族に犬を見せても、不思議そうな顔をする。見えていないのだ。  犬は基本、青年になついているもののことあるたびに逃げ出しては死体を食べに行く。青年もその度に探して連れ帰る。繰り返しているうちに、気がつく。  死体が常に家にあれば、犬は逃げ出さないのではないか? 「これって、テーマとかあるの?」 「作者に訊いたら駄目じゃない?」  そっか。納得する。普通、読者が作者と直で話すことなんてない。  この作品にテーマがあるのだとすれば、なんだろうか。狂気――いや、狂気だけでは面白くもない。そもそも、テーマなんてあるのだろうか。豊島のテーマは、面白さの追求。いや、そんなはずはない。  今回の話を面白いと思って書いたなら、豊島のどこかは壊れている。  いや、壊れていることに今まで気がつかなかっただけなのかもしれない。知らない。僕はたいして、豊島の私生活を知らない。月一の会合で僕らが交わした言葉には、お互いを深く知るための情報を求める感情がなかった。そのときその一瞬を、思ったように繰り出す。にもかかわらず、記憶には大学で交わしたどの内容よりも深く残っている。 「作品の感じが、変わったよね」 「そうかな」小さく首をかしげる。 「今まで、もっと穏やかだったから」  別の世界線で殺人鬼をしている自分がやってきて、自分の世界で人殺しをする話。消しゴムと魂が入れ替わってしまう話。ぬいぐるみが五つの願いをかなえてくれる話。どれを取っても、展開としては穏やかに収束する。  だが今回は終始一貫して、どこまでも落ちつかない展開だった。面白くないわけではない。ただ、豊島徳美らしくはないというだけだ。もっとも僕は、豊島徳美を熱心に語れるほど長い歳月を共にすごしてはいない。よっぽど新本の方が、彼女について熱心に語れるだろう。 「どっちの方が好きなの? 川北さん的には」 「えっ、そうだなあ」  ウインナーコーヒーが運ばれてきた。会話が止まる。  店員が去ったところで、口を開いた。「どっちもどっちなりに、いいところがあって」  豊島の片眉がかすかに寄った。乾いた笑みを浮かべる。「そうい――」 「あれ? キタと――なるこ?」
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