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聞き知った声に、振り返る。目を丸くした水際が立っていた。大学で会うときはリュックだが、今はトートバッグを肩にかけている。いや、そんなことはどうでもいい。
水際は今、豊島を呼んだのか――?
やっぱりそうだ、と水際は表情を明るくする。歩み寄り、テーブルの横で止まる。「なるこ、久しぶりーっ」
返事はなかったが、見上げる口端が上がった。だがすぐに表情が消え、飲みものへ手を伸ばす。
どう判断すればよいのかがわからなかった。だが少なくとも、僕よりも彼女を知る人間は多くいるようだ。とりわけ、同学年に。新本はサークルが同じだからわかる。だが水際は、どこの線でつながっているのだろうか。新本が紹介した。ならば新本と水際は、僕の知らないところで会っていることになる。二人で会う理由があるのだろうか。つき合っている? 一言ありそうなものじゃないか
――たぶん、違う。
「あっ、もしかしてお邪魔だった?」こちらを見て、かすかに首をかたむける。
「変な勘違いだ。豊島はともだ――」
「友だちでも、ましてや恋人でもない」
ひどくよく通った横やりに、思わずテーブルの向こうを見遣る。仏頂面で原稿を見下ろしていた。
「私たちには特に、関係らしい関係もないから」
水際は声を上げて笑った。「よかった。まだ小説も書いてるみたいだし――辞めなかったんだね」
「知ってるでしょ」
「ぜーんぜん。なるこ、全部ブロックしてるんだもん。あっ」テーブルに両手をついた。整理整頓をしている話し相手に身を乗り出す。「ライン、教えてよ」
豊島の片眉が寄った。「川北君とデート中だから、邪魔しないで」
どきりとする。呼び方が変わった。
「嘘ばっかり。さっきなんも関係ないって言ってたじゃん。私、ただなること話したいだけだもん。ねーねー教えてよ、ライン」
「あとで川北君に教えてもらえば?」重ねた原稿を立てて持ち、机上に何度かついて束の上限を合わせる。「私たちは今、原稿の話をしてる」
「えー」口をとがらせる。「わかったよー」身体を戻したかと思えば、再び目が合った。そこにはすでに、明るさと元気を取り戻した水際がいた。
「キタ、明日絶対教えて?」
じゃあね、と歯を見せる笑顔で手を振りながら、レジに向かっていく。
どういう距離なんだ。混乱していた。豊島は明らかに、水際を毛嫌いしている。水際は、豊島になついているように見えた。そしてお互い、ずいぶん前に知り合っているようなやり取りだった。水際は東京生まれ東京育ち。豊島は茨城生まれで大学進学に合わせて上京。生まれも育ちも接点がない。だがずいぶんと前からお互いを知っているような――まさか。
「あのさ、豊島って――何歳?」
「二十歳【はたち】」
絶句した。だが考えてみれば、出会ったときからおかしいのだ。先輩であるはずの新本を呼び捨てにし、あまつさえ文句を言っていた。同じく先輩な上に初対面である僕にも、揺るがない姿勢。どうやらこの思い込みの全てを豊島のせいにすることはできそうにない。
「何歳だと思ってたの?」
「一個下って聞いてて」
「へえ」ようやく表情が緩んだ。「じゃあ川北さんの目には、生意気な後輩として映ってたわけだ」
「ああ――」
そうだ。そう思ってしかるべきだった。
「あんまり気にならなかったな、今まで」
「でしょうね」原稿の角を指ではじく。「海を見に行きたい」
僕は腕時計を見遣る。十三時になろうとしていた。「行く?」
「どこに海があるのか知らない」
「見えるところでいいの?」
いくつか候補が浮かんでいた。生まれは埼玉だが、高校から東京に通うようになった。上京して二年よりは都会の地理に強い。おかげで彼女の口から気まぐれに飛び出す要望には、いつも僕の提案した場所でかなえることになった。
豊島が小さく笑う。「見えないところに海はないでしょ」
「砂浜がどうかとかだよ」
「なるほど」笑みが消えた。遠い目をする。「見えて――眺めていられればいい」
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