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「あれ、この前の兄ちゃんじゃねえか。鍛え甲斐のありそうな身体だから、先が楽しみだな」
入ってきたのは、ボディビルの大会で豊嗣に席を勧めた男性だった。お陰で、香世に会えなかった。確か、郁弥と呼ばれていたなと思い出し、出来れば関わりたくないと思った。
「若松様、いらっしゃいませ。馬場様とお知り合いですか」
「ああ、まあな。この前の県大会でちょっとな」
知り合いという程ではない。そこは否定して欲しいと、豊嗣は切に思った。
「申し訳ありませんが、ロッカーのご案内をお願いできますか。今の時間は、男性スタッフの手が空いていなくて……私では、入り口までしかご案内出来ませんし」
「もちろんだ。鵜飼さんにはいつも世話になってるからな。お安いご用だ」
しかし受付の女性は、よりにもよって郁弥に、豊嗣の案内を頼んだ。
「兄ちゃん、馬場豊嗣っていうんだな。俺は若松郁弥、よろしくな、トヨ」
郁弥は、渡されたばかりの会員証を覗き込んだ。
「とよ?」
「駄目か? その方が呼びやすいだろ。あ、俺のことは郁弥でいいぜ」
そう言って郁弥は、輝くばかりの笑顔を見せた。
「つ、疲れた……」
プラチナ・スポーツジムから帰宅した豊嗣は、ベッドに倒れ込んだ。
ジムの会員はほとんどが男性で、女性がいたとしても、既に鍛え上げられた筋肉を持つ、ボディビルダー達だった。
とはいえ、近くに他にジムは無く、香世の生活圏内にも、他にめぼしいジムはない。今日は、たまたまいなかったのだろう。これからは、もう少し香世の生活パターンを調べて、ジムに行かなければならない。
そう考えた時、スマートフォンの着信音が鳴った。
『今日はお疲れ。明日も待ってるぜ。互いに頑張ろうな!』
成り行きで、メッセージアプリのIDを交換する羽目になった郁弥からだ。
気は重かったが、郁弥の誘いに乗る形ならば、毎日通っても不自然ではない。毎日通うならば、月額制の会員になる方が経済的だと考えた。
郁弥は、初めて見る器具に戸惑う豊嗣に、一つ一つ丁寧に使い方を教えてくれた。それは、スタッフの仕事ではないかと思ったが、人と話すことが苦手な豊嗣には、郁弥の案内を断り、忙しそうにしているスタッフに声を掛ける勇気が無かった。
郁弥はついでだからと、同じ器具で並んでトレーニングした。
もちろん、最も低いレベルに設定した豊嗣に対して、郁弥はレベルを最大にしていた。普段は、もっと高い負荷を掛けられる器具のある地下で、トレーニングをしているらしい。
「すみません、僕の所為ですよね。い、郁弥さんには、物足りないんじゃないですか」
「気にするな。これでも充分、キツいからな」
遠慮がちに言った豊嗣に、郁弥は眉間に皺を寄せながら、白い歯を見せて口だけ笑ったのを思い出した。
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