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あるときには何にも思わないのに、無くなってしまうと、それはとても大切なものであったことに気づくことは、よくある。
部活の準備中に聴こえていたチロ君の歌声は、いつの間にかなくてはならないものに変化していた。あの歌声を聴いて、今日も部活を頑張ろう、と繰り返し思っていた。聴こえないと、モップがけはとてつもなく単調で、地味な作業だった。
「今日は歌声聴こえないね」
部長がモップの前に立った。
「はい。今日は休むって言ってました」
「……そっか。あの歌声のファンなのに。滝下君、体調不良?」
「部長、知ってるんですか?」
「何回も聴いてるって言わなかった? 滝下君と同じ小学校なんだ。特別支援教室でいっつも歌ってたから、覚えてる。一生懸命で、運動会に応援歌を作って歌ったりして、あったかい子だなって思ってた」
「……あったかい子」
部長は結んでいた髪をほどいた。くるんと少し癖のある髪が揺れ、顔まわりの後れ毛を入れ込み、結び直す。
「さ、練習、今日も頑張ろうっ! つぐちゃん、ブロックの練習、私と一緒にしよっか」
返事をして、モップを片付けた。
雨のせいもあるのか、体育館が湿気ている。床がベタつき、不快指数の高い空間だった。ボールも、いつもなら触っていても何も思わないのに、今日はべたべたとしていて手に張り付くような気がした。
雨脚が強くなり、開けていた体育館扉から雨が風に乗って吹き込むようになったので、扉を閉めた。しだいに、雷音もひびき始め、部活はいつもより早めに切り上げる事になった。
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