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「絶対に、もう二度と、その日は来ない。
どんなに焦がれても。
がむしゃらとか、一心不乱とかかっこ悪いって気取ってみると、引っ込みがつかなくなって、気がついたら、過ぎちまって、二度と手は届かない。
時計は進む。同じ日は二度と来ない」
青春ってそんな感じで駆け抜けてくもんだろ?
と、青年は公園の四阿のベンチに深く腰かけて笑った。片手には飲みかけのプルタブの開いた缶。もう片方の手は膝の上に置かれている。
薄手のパーカーにTシャツ。
細身のパンツに随分履き古した様なスニーカー。歳は、20代後半くらいだろうか。
(失敗した)
四阿に人影を見た瞬間に、どこか別の雨が凌げる場所を探すべきだった。
というか、気まぐれを起こして公園なんて入らずにコンビニにでも行った方が良かった。
いや、誰だってそう思うだろ。
通り雨から逃れるために駆け込んだ四阿で、一度も会ったこともない男に声をかけられたら。
この時、僕の頭に浮かんだ選択肢は2つあった。
今すぐ、雨に濡れてでもこの場から立ち去り、近くのコンビニに入るか、通り雨が過ぎるまで、この場に留まるかだ。
普段なら恐らく、前者を選んだが、僕はこの時、少し…ほんの少しなのだが、部活動で少しギクシャクしてしまい、誰にも当たれない気持ちを抱えたまま、活動終了時刻よりも早く、抜け出してきてしまった(もちろん、顧問には一声かけてる)。1時間ほど、普段は行かないようなゲームセンターに寄ったり、本屋をぶらついて、イマイチ気持ちは晴れないが帰ろうと思った矢先、ポツポツと降り始めたのだ。時間的に同じように通り雨にあい、コンビニに駆け込む奴がいるかもしれないことが頭を過り、コンビニとさほど距離の変わらない近くの公園の四阿に足を向けた。
…そしたら、先客の男がいて、でもまあ、いいか、とその男から1番遠い、ベンチに荷物を下ろしたところで男は、口を開いた。
正直、今すぐにここから立ち去りたいが、雨の中を走るのも嫌だ。
(……まぁ、すぐに止むだろう)
まだ、そこまで暗くはない。
天気予報も降水確率は高くなかったはずだ。
僕は、そういうもんですかと、適当に返事をし、背負っていたリュックからタオルを取りだし濡れた頭と制服を拭う。
びしょ濡れ、という訳では無いが、雨で濡れシャツは肌に張り付いてあまり気分がいいものでは無い。
深いため息をひとつ吐き出し、僕はベンチの端に腰掛ける。
男のことは、なるべく視界に入れないようにした。
「なんだ、愛想がないなぁ」と男は言葉のわりに大して気にした様子もなくケラケラと笑うと、手に持っていた缶を口元に運ぶ。
飲み干したのか、カラン、と軽い音を立てて、缶はベンチに置かれる。
チラリと見た缶のラベルには見た事のないメーカーのロゴとBLACKという文字書かれていた。
(コーヒーか)
あれの何が美味いのか。
あんな苦いだけのもの、何がいいのか。
僕は、コーヒーは自分じゃ買わない。
自販機も、コンビニも、大手ハンバーガーチェーン店も、ファミレスも、カラオケも基本的に炭酸飲料だ。(部活の時はさすがにスポーツドリンクかお茶だが)
親戚の前でだけ、なにか飲むか、と聞かれれば微糖のコーヒーを飲んだりする。
カフェオレじゃなく、微糖のコーヒーってのが、僕的には小さな見栄だ。
僕は、なんだか自分も喉が渇いた気がして、リュックから部活用に買っていたスポーツドリンクを取り出して飲んだ。
部活の後だと程よい酸味と甘みに感じ、ゴクゴクと喉を潤してくれるそれが、今日はあまり美味いとは思えなかった。
少し飲み、キャップを締める。
僕は、何となくスポーツドリンクの成分表示を眺めてみた。
ザーザーと雨はまだ、止まない。
「…それ、飲めなくなったんだよなぁ」
雨が四阿の屋根を打つ音に交じって、男の声が僕の耳に届いた。
それと言われたのは僕が飲んでるスポーツドリンクのことだろうか、と僕は視線を上げると、男は案の定、僕の手元にあるスポーツドリンクを見ていた。
「何となく、それってあの頃を思い出しちまって、ダメなんだ…逃げ出したのは俺なのになぁ」
男は言うだけ言うと、首を後ろに倒して、空を見上げた。
なんとも、よく分からない男である。
…これは、不審者なのだろうか。
(そもそも、僕はなんで知らない男の話を聞いてるんだろう)
少し、雨足が弱まった気がする。
あと少しもすれば上がるだろうか。
チラリと腕時計をみる。
短針は6を長針は2を過ぎていた。
(……18時10分…今日の夕飯なんだろうなぁ…)
そういえば、今朝、家を出る時、今日の夕飯は〜と母が言っていた気がするが、バタバタと家を出てしまったため、ちゃんと聞いていなかったことをふと、思い出す。
やけに張り切った声をしていた、…気がする。
こういうのは、思い出せないと途端に凄く気になり出す。
母がそんなに張り切るようなもの…。
なんだろ。カレーか、肉じゃがか、…オムライス、グラタン、鯖の味噌煮、スパゲティ、唐揚げ、…焼肉か、鍋か…。
…いや、分からない。
朝、なんと言われただろうか。
「…ちゃんと聞いときゃ良かったなぁ」
少しだけ、後悔する。
別に、夕飯なんて帰ればなんなのか分かるのだけれど、今、気になる。
きっとこの興味は、現金なもので家に帰って内容を知れば、途端に消え失せるのだろう。
(でも、まぁ興味なんてそんなもんだよな)
今、思い出せないならいくら考えてもしょうがない。
僕は、頭の中の意識を外へと向ける。
雨の音を意識的に意識する。
こういう、自分の中の考えのすり替えは得意だ。いつも、そうやってきたから。
「…なぁ、少年」
男が話しかけてきた。
一瞬、自分に向けられたものでは無いのかと思ったが、生憎と、男からみて"少年"と呼べる相手はこの場に僕しか居ないのだから、男が話しかけたのは僕だ。
何より、男の目が僕を見ている。
無視しようかとも思ったが、気が付けば僕は「なんですか」と応えていた。
「どうにもならないものを諦めるにはどうしたらいいと思う?」
「…別のものに意識を向けるとか?」
「それでもダメだった。…いや、最初はそれでよかったんだ。でも、少しでも触れるとあの時ああ、してればって、……こう出来てればって後悔ばっかりが押し寄せて、結局、そこに焦がれちまう」
男は、絞り出すようにダメなんだ…と、吐き出した。
「…なんで、そんなに好きだったのに、手放したの」
僕は、これは、この男に対して、酷く酷なことを聞いていると思った。
きっと、のっぴきならない理由があったのだろう。こんな見ず知らずの年下に吐き出したくなるような、この男がいうあの頃、とかいつの話なのかは知らないが、何か、特別な理由があったのだろう。
僕の頭の中では、様々な理由が浮かんでは消えてを繰り返している。
男は、なんと答えてくるだろうか。
「何となく、行けなくなったんだ。」
「…は?」
なんとなく、僕は、男の言葉を繰り返した。
「何となくだった…まあ。無意識のうちだったんだけどな。誰かに怒るとか、そういう事から逃げてたんだ。誰かと衝突するくらいなら、自分の中で飲み込んで、我慢すればいい。そう思ってた。…でもさ、そういうのって、ちゃんと吐き出さなきゃいけなかったんだ」
男は、ひとつずつ思い出すように四阿の少し古びた天井に視線を向けながらポツリ、ポツリと言葉を紡ぐ。
雨はまだ、降っている。
「何が原因だったかなぁ…自分と周りの温度差に気づいた。真面目に、やりたかったんだ俺。その道に進みたくて。でもさ、周りの奴らとの…熱量の違い?ってのに気付いたら、なんか、腹が立って、…真面目にやろう、とか、なんか言えばよかったのかな…。でも、人とぶつかるとか出来なくてさ、俺、逃げちゃったんだよね」
あぁ、そうだ。逃げたんだ。と、男は、まるで、罪の告白でもするようにひと言、ひと言、ゆっくりと、声にしていく。
僕は何となく、それを聴き逃してはいけないような気がして、周りの他の音が消えてしまうくらい、それこそ、学校の授業なんかよりも真剣に男の声を聞いた。
将来、その道に進みたいと漠然と思っていた。卒業後の進路も、そっちの方向で進めようって思ってたのに。
思ってた…けど。疲れてたのかもしれない。だって誰も応援してくれなかったから。
安定した職について欲しいと、それは趣味の範囲じゃダメなのかと、周りは口々に言った。真剣に仕事としてやっていきたいと言う言葉を真剣に捉えてくれる人はほとんど居なかった。
その真剣に捉えてくれる人も、こっそりと応援はしてくれるけれど、背中を押してはくれなかったし。
それで、1度逃げたら、まぁ、今の俺を見ると分かると思うけど、戻れなかったんだよね。…最終的に、戻る、ってか別の場所を見つけられれば良かったのかもしれないけどさ、学生のうちの世界って驚くほど狭いんだよなぁ。
無駄にプライドが高かったのが災いしたのかもしれない。それがなくても大丈夫って、自分に思い込ませる癖が悪かったのかもしれない。他にも……まあ、多分、色んなダメな所があったんだ。
結果としては、俺は色んなところからフェードアウトだよ。
色んなものが、手の中から零れていった。
その頃を思い出すとしんどくて、何が美味いのか分からないブラックのコーヒーなんて飲むようになった。それでも、時々、不意に触れてしまって、辛くなって…。
眠れなくなった、怖くなった。
人が言う普通からも、ちょっとずつズレてさ…。
男は、そこまで言うと、はーっと息を吐き出し、話に聞き入る僕にふっ、と笑って見せた。
「今日は、疲れたなぁって思って外に出たんだ」
「…疲れたら、家にいないんですか?」
僕の言葉に男は、また笑う。
何となく、子供扱いされた気がした。
ビールを飲む父にそんなのの何が上手いのか、と聞いた時、「まだ子供だなー」と笑う父の顔と似ていたから、そう、思ったのかもしれない。
「家に、居るのにも疲れてさ。
もう、いっかなーって思ったんだ。…結構、俺、踏ん張ってみたつもりだったし…多分つもり、だっただけだけど。でも、そういえば、今日だったなぁって思って。
とりあえず、来てみた。
俺は、あの日の言葉は何一つ役立てられなかったけどさぁ…」
空き缶を掴み、立ち上がると、男は四阿の外を見た。
僕もつられるように男の視線をなぞる。
雨は上がっていた。
日は傾き、赤みを少し残した空が目に入る。
「…そろそろ時間だなぁ…」と、男が呟く。
僕は、慌てて、腕時計をみた。
短針は6、長針は4をさしていた。
18時20分。
ホッ、と息を吐き出す。
まだ、親に咎められるような時間じゃない事に安堵した。
しかし、不思議な感覚だ。
てっきり、1時間以上経ったと思っていた。
それなのに、僕は、男と出会って10分程度しか経っていない。
男は、僕に向き直ると、また、言葉を並べていく。
男は、ゆっくりと僕の方へ来る。
改めて見ると、歳の割に線が細いなと思った。今にも折れそうな。
「言葉にさ、出すべきだよ。やりたいって言わなきゃダメなんだ。まだ、大人ぶる必要なんてなかった。
物分りのいいフリしてると、後がしんどい。
自分で自分の首を絞めることになる。
自分がしたいことも、よく分かんなくなってくるから…」
男の手が僕の髪をクシャりと掻き混ぜるように撫でた。
骨ばった、細い指が頭に触れる。
「…あんた、誰なんだ?」
すごく、今更な質問のような気がした。
あんなに関わるつもりがなかったのに、今の僕は、この男が誰なのかすごく気になっている。
男は、喉の奥でくくっと笑って、「明日はちゃんと部活行ってみろよ、きっと大丈夫だから」と今度は、遠慮なりしに思いっきり僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でると空き缶片手に、軽い足取りで四阿から出ていく。
「おいっ!!」
僕は呼び止めようと、声をかける。
振り返ると、男は、赤みの残る空をバックに、僕をみて笑う。
「今日の晩飯は、カレードリアだよ 」
目じりを下げ、微笑むように男は笑った。
途端、強い風が吹き抜ける。
巻き上がった砂が目に入らないようにギュッと瞑り、再度、目を開けると、男は何処にもいなかった。
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