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長谷寺の敷地に沿った道を歩いて鎌倉の大仏が鎮座する高徳院も並ぶ長谷通りに出た。
道路の両脇にはさまざまな土産物屋や食べ歩きのできる飲食店が並び、観光客が細い歩道をぎっしりと歩いている。花の寺として知られる長谷寺や高徳院に向かう流れとは逆の方向へおっさんが歩き出す。
その時になってようやくおっさんが江ノ電の長谷駅に向かっていると気づいた。
でもその長谷駅まで向かう道すがら、おっさんに声をかける店の人が多い。
「あら、野狐の実篤くんじゃないの。この前は助かったわー。ありがとねー」
鎌倉名物の一つ、豆を使ったお菓子の店の女性が手をあげた。
「まめきち」と看板がかかっている。長谷に本店を構える有名店で、市内には何店舗か支店があったはずだ。よく「まめきち」の豆菓子を水玉模様に見立てたかわいい紙袋をもって歩く観光客の姿を見かける。
「なに言ってんですか。オレでよければいつでも駆けつけますって。あ、そうだ、おばちゃん。権五郎神社のごんごろって猫、知ってる?」
「もちろんよ! 占いができるごんごろちゃんでしょ? 有名よ」
「いなくなったってことは?」
「知ってるわよ、もちろん。この前鎌倉テレビでもニュースになってねえ」
「そうなの?」
「そうよ」と言いながらおっさんと、まめきちのおばちゃんが店の軒先で話しはじめた。それを背中で聞きつつ、店頭の豆菓子を眺める。
明太マヨネーズとかカレーとか梅とか定番の豆菓子もあれば、季節ものの変わった味の豆菓子もある。史乃さんがけっこうじいちゃんの酒のあてに買っていたのを思い出した。
「じゃあごんごろは誘拐された、って話になってんですか?」
おっさんの驚いた声のトーンに、2人のそばに近づいた。
「ここらじゃね。だからびっくりしちゃって。あたしたちも。猫を誘拐するなんて聞いたこともないし」
「慧。誘拐だってよ?」
「あらイケメンな子連れて、なに、親戚? 似てないけど」
「いや、オレの弟子。似てない、は余計ですけどね」
いつからおっさんはオレの師匠になったんだろう。
そう言いかける前に、よく舌が回るおばちゃんが笑いながら謝ると慧を見た。
「あのね、このお兄さん、優秀なのよ。これでも東大出てるし」
「トウダイ?」
東大。東大って?!
「おばちゃん、それ言わないでっつったでしょ」
おっさんが顔をしかめておばちゃんをなじるようなふりをした。
「あらあらやだ、ごめんなさいねー。でも自慢できることなんだから隠さなくたっていいじゃない。ねえ?」
同意を求められて曖昧に笑ってみせた。
ちょうどその時、店の奥から観光客の「すみませーん」と呼ぶ声におばちゃんが振り向いた。
「長く引き止めちゃったわ。ごめんねえ、また。はいはーい、今行きますよー!」
おばちゃんは慌ただしく店の奥のレジへ向かった。
おっさんはまた長谷駅へと向かって歩き出した。狭い歩道の幅を占めるその大きな背中を見つめた。まさか、おっさんが東大を出ているとも思ってもみなかった。人は見かけによらない。
そう思ってるうちに、今度は古民家風のカフェから出てきた人物が「野狐くん」とおっさんを引き止めた。
白のスタンドカラーシャツにバリスタエプロンをした男だ。エプロンには、ト音記号と音符が小さく刺繍されていて、「カフェ&バー アデール」と書いてある。
確か、よく取材されている有名なカフェだ。メガネをかけた男の人にも見覚えがある。確かイケメンオーナーとして雑誌などに登場していた気がする。
「おう、繁盛してんの?」
「まあね。この前は助かったよ。でもあれから女性のお客さんたちに、野狐くんのこと教えろって言われてさ。参ったね」
その言葉に、おっさんの顔が一気に緩んだ。
「オレの隠してきた良さが伝わってしまったな」
「いやそういうのいいからさ」
クールかつばっさりと斬られたおっさんは「これだからイケメンはいやなんだよ。男の悲哀ってもんを全然わかってねえ」と渋い顔をした。
「さっきそこでまめきちのおばちゃんに捕まってたね」
「そうなんだよ、御園生。ちょっと今、権五郎神社のごんごろを探してんだ。その話してたんだけど、知ってる?」
「もちろん。なに、探してるの?」
「まあな。あ、こいつ。慧。稲村ヶ崎に住んでる」
おっさんが慧を振り向いて、軽く片手で示した。頭を下げると、御園生と呼ばれたオーナーの男性が「高校生?」と聞いてきた。
「はい」とうなずくと、「へえ……」と軽く目を見張ってから、頭のてっぺんから足の爪先までさっと見られた。それから「君さ、うちで週末バイトしない?」とにっこり微笑まれた。
「え……っと」
「悪いな、こいつは今オレが雇ってんの」
「ああそうなの……。じゃあ、野狐くんとこに飽きたら、うちのバイト考えてみてね。僕はカフェ&バー アデールの店長をしている御園生といいます。これ名刺ね。君だったらバイト代、弾むから頭の隅においておいてくれると嬉しいな」
シャツの胸ポケットからさらりと出された名刺を一枚、渡された。
「ありがとうございます」と頭を下げると、おっさんが「うちはバイト代が魅力のとこじゃない」とかなんとか文句を言った。
「まあそれはそれとして、なんか、客からごんごろのこと聞いたりしない?」
「どうだろう。ここらじゃ話題になってるけど、見たって話は全然だね。長引いてかわいそうなことになる前に見つかってほしいけどなあ」
神妙な顔つきで御園生さんはうなずいた。
思った以上に近隣では、権五郎神社のごんごろがいなくなったことが知られている。
でもそのこと以上に驚いたのは、おっさんがけっこう顔を知られている存在だということだった。歩きがてら挨拶されたり、今みたいな世間話をしたりと、目的地のはずの長谷駅まで5分もかからない距離なのに、かなり時間がかかっていた。
「……けっこういろんな人がごんごろ心配してるんすね」
御園生さんと別れて歩きながら、その背中に声をかけた。
「そうみたいだな。ますます見つけてやんないとな」
おっさんはそう言いながらも店先をちょっとのぞいたり、植えこみがあればそれをのぞいたりした。
「お前もぼうっと歩いてないで探せや」
「ここらへんはいないでしょ」
「そうだとしても、なにか手がかりがあるかもしんねえじゃねえか」
通り過ぎる観光客の目を気にせずきょろきょろしながらも、おっさんは長谷駅に向かって歩いていく。その後を追いかけようとして、爆笑するような笑い声の大きさに思わず立ち止まった。
線路の向こうにいる慧と同じ高校の制服を着たグループがいた。その顔ぶれに見覚えがあった。
特にその中心にいる男子と女子。
バンチョと陰で呼ぶ柿澤と、いつ見てもかわいい香坂さんだった。
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