2章 権五郎神社の福猫ごんごろ失踪事件

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 まるで台風一過みたいな気分で緊張を解きながらため息をついた。  最近、けっこう柿澤に絡まれることが多いのに、今日のことでさらに平和な学校生活が遠のいたのは確実だと思う。だからといって香坂さんのせいにするつもりはないけど。  もう一度ため息をつきながら長谷駅の方に振り返って、「うっわ」と飛び退きかけた。  顔に圧というものを貼り付けたようなおっさんが慧を見下ろしていた。  心臓が驚いてバクバク言っている。背後に立つのはやめてほしい。 「おっさん、あんたマジで怖いから……」  もう何度目かわからないため息をついた。 「おう、そりゃ悪かったな。友達か?」  どの辺りから見ていたんだろう。嫌なものを見られた居心地の悪さもあって、「……とは違うかもね。同じクラスの人たち」とつっけんどんに言った。 「そうか。まあ……めんどくさそうだな」 「まあ……めんどくさいね」  おっさんはそれ以上の興味を失ったように「とりあえず電車で鎌倉出るぞ」とあごでホームの方をしゃくった。 「どういうこと? 長谷駅の駅員さんに用があったんじゃないの?」  さっき慧が柿澤に呼び止められている間、長谷駅の改札隣にある駅員室に向かった姿を視界の端に捉えていた。 「そのはずだった」  そう言っておっさんはさっさと改札を通って駅のホームへとあがっていった。その後を追ってホームにあがった。  鎌倉駅方面のホームは週末ということもあって、たくさんの観光客が並んで待っている。でもその中で水色のつなぎを着たおっさんの風貌は目を引いた。改めて大勢の人に混じって立つ男に異質なものを感じた。東大を卒業していて、でも極楽寺で古道具屋兼便利屋をやっている。それだけでは測りきれない、なにか。 「江ノ電の知り合い、藪野(やぶの)っていうやつなんだけど、今日は鎌倉駅の方にいるんだと」 「ああ、それで……。でもその人に聞かなくても、江ノ電の人なら誰でも事故とかわかるもんなんじゃないの?」 「それはな。いちおう聞いたら、そんな話はないってさ。ごんごろがいなくなったことも知ってたけど、電車で動物をひいた報告はあがってないってよ」 「じゃあ、やっぱりごんごろは、境内から誰かが連れ去ったのかな」 「おそらくその線が濃厚だろう。でもって9月18日は祭りだったわけだろ、ごんごろに目をやってる暇なんて、まあ神社の人間にはないだろうしな」 「でもわざわざ誘拐する意味がわかんなくない? 占いが当たるっていったって、だってしょせん占い……だし」 「そうは言うけど、その占いが大事なやつもいるだろうよ。ただ猫を連れ去るってのは、そう並大抵なことじゃないだろ。物なら音も立てないが、猫は鳴く。その猫が鳴かずしてさらわれたとしたら、猫にとって相手が知った相手か、それか鳴く間も与えられなかったかのどっちかだろうよ」 「……それは、嫌だな」  香坂さんの顔がよぎった。 「だな。生きててもらわないとな。なにせ、みんなかわいがってた神社のお猫さまだ。単なる猫じゃねえ」  確かに単なる猫じゃない。あながち占いが当たるっていうのも信じたくなるほど、なかなかに影響力のある猫だ。 「ま、藪野に聞かなくてもいいんだが、あいつ、大の猫好きなんだよ。そういうやつの意見も聞いておきたいからな。ま、つきあえ」 「了解っす。ただ……インセンティブの話、ちゃんとしてくださいよ」 「……細けえこと言う男は嫌いだわ」  おっさんは舌打ちしながら、ちょうど極楽寺の方面からすべりこんできた緑色のローカル電車を見た。そして前の人に続いて電車に乗りこんだ。  週末の江ノ電の混雑の車内で、おっさんは十分に2人分の空間は占領していた。
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