1章 野狐という屋号のおっさん

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 その日、慧は江ノ電鎌倉駅を降りると、歴史の教科書でも習った鎌倉五山という寺が集まる北鎌倉の方角へ線路伝いに歩き出した。  JR横須賀線の北側一帯は、扇ガ谷と呼ばれる地域で、そこに史乃(ふみの)の家があった。  史乃さんと慧が呼ぶその人は、慧の母方の母、つまり祖母だ。小さい頃から名前呼びを厳命されていて、ばあちゃん、なんて呼んだ暁には、いつもの小遣いは諦めるしかなくなる。  同じ市内にある慧の家からは江ノ電で行くのが一番早いルートだけれど、たいていは自転車を使う。でもこの日はなんとなく夏の盛りを終えようとしている鎌倉の中心地、いわゆる旧鎌倉を久しぶりに歩くか、なんてへたな気を起こしていた。  ……違う。この日は朝から散々だった。  午前中の土曜講座では写させてもらった答えが間違ってて赤っ恥をかくし(写す方が悪いというのはなしだ)、クラスのカーストトップにいる学年成績10位以内キープの柿澤(バンチョと陰で呼ばれてるけどイケメンだから女子には人気の文武両道男。ムカつく)にはそれでからかわれるし。しかも学年一かわいい香坂さんにまでちょっと笑われるし。いや、でも。天使みたいな微笑みを見られた、というのはつまり、結果としては良かったのか?  ほかにも母さんの忘れ物のために史乃さん家に行かせられるし、それでいつものように自転車にまたがったとたん、パンクなんてしやがった。  だからわざわざ土日の激混み江ノ電なんて乗って、旧鎌倉にまで出てきたのだ。  でもそれが後々、もっと後悔の種になるなんて、この時のオレは知らなかったけれど。  ちなみに旧鎌倉というのは、鎌倉市という行政的な境界を指すわけではない。南を海に、ほかの三方を山に囲まれている、いわゆる鎌倉幕府が直接支配していた地域をほぼ指している。そういう意味では、海に面した人気のリゾート地、七里ガ浜なんかは、鎌倉というより湘南というイメージの方が強いのだ。  そして慧はその七里ガ浜にほど近い稲村ヶ崎に住んでいる。  線路沿いから道がそれてゆき、ゆるやかな登り坂になった。じょじょに道沿いに並ぶ家も、家と呼ぶより邸宅と呼びたくなるような大きい屋敷が連なるようになる。  どの家にも樹木の豊かな庭があり、庭先でサルスベリやハギの花が彩りを添えている。寺域をのぞけば昔から続いてきた数々の屋敷の構えに、いつもこの辺りに来ると息をひそめなくてはならないような気がする。  もともと史乃の家がある扇ガ谷は山裾のひだが入り組んだ地形で、道もまたその地形そのままの谷筋をなぞる。鎌倉の中でも湿気がいつも溜まっているような緑の気配が濃い地域で、どことなく鬱蒼としている。  鎌倉幕府を開いた源頼朝ゆかりの神社、鶴岡八幡宮がある地域と接して昔から鎌倉幕府の要人が暮らしたらしく、鎌倉唯一の尼寺や花の寺もあれば、北条政子ゆかりの寺もある。観光客が気軽に入れるような店も少なければ、どの道もほぼどん詰まりになっていて、鶴岡八幡宮へ通じる若宮大路や小町通りに比べれば観光客は圧倒的に少ない。  つきあたりに寺しかない車の幅一台分の細い道に曲がった時だった。  ばさばさっと風を切る音とともに何かが降ってきて、慧は口に入れたばかりだったグミを反射的に飲みこみつつ飛び退いた。  ばらばらと地面に細い枝が散らばった。どうやら庭木の枝を剪定していたものが落ちてきたらしい。 「び、」びったと喉まで言葉がでかかった瞬間、「すんません!」とどらのような大声がさらに降ってきて、今度こそ心臓が縮みあがった。 「あらあらごめんなさいね、けがは……って、慧。どうしたの」  音よりも空気が出てるみたいなのんびりした声にパッと顔をあげると、ちょうど黒い板塀が続いた先にある木造の門から史乃が姿を見せた。 「あー……うん、別に大丈夫」と答えた瞬間、「けがなかったですか?!」と聞いたばかりの声の持ち主が史乃さんの後ろから飛び出してきた。 「すんません、ちょっと手が滑って」  そう言ってオレの前に立った男に、また心臓が縮むような気がした。  口のまわりの濃いひげと、頭に巻いていた手ぬぐいをとって現れたスキンヘッド。耳には複数のピアス。作業着らしい薄い水色のつなぎを着た体は、軽く180センチは超えていそうな背丈で、柔道やラグビーでもやっていそうな幅広さだ。そして極めつけは足元の雪駄履きだ。  史乃さん家にやべえやつがいる!  慧を見下ろすつぶらな目だけが唯一小動物みたいにかわいらしく、それがなければ、絶対逃げ出していたと思えるような相手だった。 「けが、なかったですか?」  心配そうにもう一度聞かれた時、史乃さんが、 「野狐さん、うちの孫の慧です」 と男の背後から呼びかけた。  のぎつね?  この男の名前? 「ああ、そうでしたか。慧くん、大丈夫だったかな?」  一歩近寄られて、ちょっとのけぞり気味だった体のバランスを崩しかけて後ろに一歩下がった。分厚い影が立ちはだかってるみたいだ。 「うん、大丈夫みたいだな。だな?」  ん?  男は頭の先からつま先まで慧の姿をさっと見下ろして、1人納得するかのように言った。  変な圧みたいなのを感じる。 「だ、大丈夫です……」  気圧され気味に答えると、男はホッとしたのか、とたんに表情を緩めた。史乃さんの方を振り返って、でかい体を90度近く丁寧に折り曲げた。 「いや、ほんとすんません。お孫さんにけがでもさせたら、もう顔出せないとこでした」 「なにもなかったのが一番ですよ。野狐さん、往来ではなんですから、とりあえず中へ戻ってくださいな。慧、あなたも入んなさい」  野狐と呼ばれた男は頭をあげると、散らばっている枝を手早く拾い集めた。そして史乃さんを先に門の内へと入るよう譲って、本人も中へと入っていった。  小柄な史乃さんの後ろについた男はまるで史乃さんを飲みこむクマにも見えた。  のっそりとその姿が門の中に吸いこまれると、その場から動けないでいた慧は、つめていた息を大きく吐き出した。
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