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権五郎神社から星の井通りに出て鎌倉の中心街とは反対の方角へ歩くと、緩やかにカーブした急な坂になる。山を切り開いて作られたため、道の両側をシダが鬱蒼と茂る崖が迫り、昼でもどことなく薄暗い。鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の軍勢が鎌倉討ち入り時に通ったという極楽寺坂切通しだ。
成就院という寺院の墓地もあるため、街灯も少ない夜ともなれば、それなりにひんやりした霊気も漂いそうな雰囲気になる。
その坂道をのぼった先に、江ノ電の「極楽寺駅」がある。ちょうど権五郎神社から見える極楽洞というトンネルをくぐった先にあり、その駅に行く手前に線路にかかった赤い橋があった。
おっさんが構える「野狐」という店兼自宅は、極楽寺駅に行く手前で折れ、赤い橋を渡ったずっと先にあるという。
「しっかし、いったい何が原因でそんななりになったんだよ」
「オレが聞きたいよ。クラスメイトの女子と話しただけだし」
「もしかして土曜日のあいつらか?」
「あーうん、まあそうだね」
覚えていたかと思いながら、対向車線を走ってきた車のヘッドライトに照らされて思わず目をつむった。車2台がぎりぎりすれ違えるくらいの道路をそこそこのスピードで通り過ぎていく。
それを見送り、おっさんが「あぶねえな」とつぶやいた。
「……なんていうかさ、いわゆるカーストなんだよね」
「カースト? なんだそりゃ、インドか?」
「違うけど、……でも違くないか。クラスの中にカースト制度がある感じ。カーストトップの人間がいて、そいつが白っていえば白。黒っていえば黒。右倣えになんの。で、オレと話をした女子は学校一かわいくて、その子を好きな男がカーストトップの立ち位置なわけ。オレは中間、くらいかな。まあたいして注意を払われるような存在でもなかったんだけど」
なんでおっさんに、親にも話さないようなことを話してるんだろうと思いながら、橋を渡ってほとんど民家しか並ばないような道を行く。
「でもなんでか、そのカーストトップの男が最近やたらオレに絡んできてさ。なんなんだろ、オレが何したって言うわけ。ほんと、こういうのめんどくさい」
おっさんは黙って歩いている。
「でもさ、オレもその話をした女子も、別に恋愛絡みとかそういう感じじゃないし。ただごんごろ探しのことで話をしただけ。ほんと世間話みたいなさ。なのに呼び出されてさ。逆らえば、まあカーストトップの取巻きしかできない奴らが忖度して、いずれハブられんだろうけど、それも嫌だし。だからってなんで彼氏でもないあいつらに殴られなきゃなんないのかもわかんないし」
理不尽だと思う。
また忘れかけていた憤りが戻ってきて、唇を噛み締めた。
「……まあ、あれだな」
ずっと黙っていたおっさんが口を開いた。
「まずは、腹ごしらえだな」
一瞬なにを言われたのかわからなかった。
「腹、減ってねえのか?」
「そりゃ減ってる、けど」
そういう話をしていたわけじゃないのに。
ムッとしていると、おっさんが「あそこだ」と言った。
前方に、赤いビニール地に「らあめん」とだけ白地ででかでかと書かれた入り口上のテントが見えた。繁盛とはほど遠そうな古めかしい店が道路にぼんやりとした明かりを投げていた。
アルミサッシのドアのガラスは曇っていて店の中は見えないけど、漂ってくるラーメンの匂いは、やけに慧の嗅覚、そして味覚にさえ錯覚を起こすほどそそってくる。
「どうだ、食ってくか? 学校終わってなんも食べてねえだろ?」
そう言われたら腹を空かせていることを思い出してしまった男子高校生にはひとたまりもない。おっさんの誘いに一も二もなく飛びついた。
おっさんが開けたアルミサッシの向こうからぶわっと通りにあふれてきたのは、煮干し出汁のうまそうな匂いをたっぷり含んだ空気だ。当然、もう止まらなくなった腹の虫が大合唱で鳴きまくった。前を行くおっさんの腹の虫の音も盛大だ。
「2人」
厨房でカウンターに背を向けていた小柄な親父におっさんが声をかけた。振り返りもしない親父の「ああ」という低い声だけが返ってきた。客を客とも思わないような無愛想さに、少し気後れする。
店内はカウンター席のみで、奥の方に1人だけ店主よりも年のいった男がちびちびとコップに入っているものを飲んでいた。日本酒か焼酎だろう。赤い顔のままで壁にかかっている小型のテレビをじっと見ている。
「ラーメン2つ」
おっさんはドア近くのカウンターに座りがてらメニューも見ずに言った。慧はその隣にあるパイプのがたつく丸椅子に座った。
「ここはうまいぞ」
なぜかこっそりと耳打ちされた。
厨房の親父は黙って黄金色の麺を湯の中に放り投げ、手早く作りはじめている。
おっさんは黙ってラーメンができあがるのを待っていて、そして奥の客らしきおじさんも黙っている。だから慧も黙っていて、ただ店内にはテレビの人工的な音以外は、料理に関係する包丁の音や火がかかっているガスの音ばかり。
そのうちにざるで麺の湯を切る音が聞こえてきて、どんぶりが置かれる音や汁が入る音、ただラーメンが出てくるまでの音ばかりに満たされた。でもそこには、慧とおっさんのお腹が鳴る音も混じってはいたけれども
どん、どん、と接客の丁寧さ、アデールの御園生さんとは全く反対の乱雑さで、親父がカウンターの2人の前にどんぶりを置いた。
目の前に置いたどんぶりの中は、透明な琥珀色の汁に縮れた細麺、そこにメンマとホウレンソウと赤い縁のチャーシュー2切れ、半分のゆで卵とネギ。王道の中華そばだ。
すぐに、どんぶりに口をつけて、まずひと口、湯気の立つ汁を飲んだ。
煮干し出汁のシンプルな旨味が体に浸透して、すごくあたたまる。口の中の切れているところにしみたけれど、それに構わずまたひと口。どんぶりを置くと、手を伸ばして立ててある割り箸をひとつ抜き出し、歯ではさみながら割る。この時間さえもったいなくてすぐに麺をすすった。
うまい。すごく、うまい。それ以外の言葉なんて、16年しか生きてない慧の中には見つからない。
ずるずると大きな音を立てて麺を吸いこむ。
体に染みこむ煮干しの香りと味の懐かしさのせいか、ふいにこみあげてくるものがあった。
それをラーメンの熱さのせいにして鼻をすすった。一心不乱に麺をすすり、メンマやゆで卵やチャーシューを頬張り、咀嚼して、痛みも熱さも、その胸の奥の感情さえ飲みくだす。
「……うまいだろ」
おっさんに問われて「うん」とうなずいた。
「シンプルだからこそ雑味がなくて、ここはオレの3本指に入るうまさなんだよ」
麺をすすりながらおっさんが慧にそう言った時、
「黙って食え」
と、厨房で手を動かしていた親父の低い、ちょっとドスの効いた声がした。
おっさんが無言になった。
うまかった。今までラーメンを食べてこなかったわけじゃないのに、今まで食べてきたラーメンの中で一番シンプルで一番熱くて、一番うまかった。
最後の一滴まで汁を飲み干して、両手を合わせ、「ごちそうさまでした」と言った。
ようやく全身から力が抜けるほど、ホッとした。
今日起きた嫌なことも全部、ラーメンとともに飲み干したみたいな気分だった。
「ごっそさん」
おっさんがそう言って、お札をとりだした。それは明らかに2人分で、慧は慌てて財布を取り出した。おっさんが「いい」と短く断って、親父から釣り銭を受け取った。
「すみません、ごちそうになります」
頭を下げると、おっさんが苦笑した。なにに苦笑したかわからないけど、とりあえずアルミサッシの引き戸を開けて外に出た。
夜ともなれば、秋に近づいているせいか、空気は少しひんやりしていた。
すぐにおっさんが出てきた。
「親父さんから、ほれ」
いきなりタッパーを突きつけられた。
「え?」
「チャーハンだとよ」
「オレに?」
「嫌なこともうまいもん食っちまえば忘れるってよ」
そう言いながらおっさんは後ろにあごをしゃくった。
慌ててアルミサッシの引き戸を開けて中に顔を突っこんだ。
親父は背を向けて、料理をしている。小気味いい包丁の音に、奥のテレビのごくごく小さな野球中継の音がする。
「あの!」
大きく張るように声をかけると「うるせえ」と怒鳴られた。
「ありがとうございます! いただきます!」
めげずにさらに声を張り上げると、親父はかすかに顔をこっちに向けるようにして「がんばんな」と低く言った。聞こえるか聞こえないかの本当に小さな、でもとてもあたたかくて力強い一言だった。
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