1章 野狐という屋号のおっさん

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 お茶の用意をする史乃さんに客間である座敷に行くよう言われて、黒光りした廊下を歩いて襖を開けた。  ちょうど慧に背を向ける形で、スキンヘッドのつるりとした形のいい頭が目に飛びこんできた。座敷の中央にあるじいちゃん自慢の一枚欅板のテーブルについて、野狐と呼ばれた男は外の庭を眺めていたようだった。  座敷と縁側を仕切る障子が開け放されていて、ガラスの向こうに小さな和風の庭が見えている。なんでもかんでも凝り性のじいちゃん自慢の庭だ。  襖を開けた音に男は振り返って、「ああ、さっきは」と改めて頭を軽く下げられた。  でも史乃さんがいた時と違って、なんだかよそよそしい。  さっき外で見た時は父さんくらいの年齢かと思ったけれど、こうして落ち着いて見てみると思ったより若い。  慧もなんとなく遠慮しながら会釈だけした時、後ろから史乃さんの声がした。 「どうしたの、突っ立って。入ってお座り」  お茶請けをのせた盆を手にして、史乃さんがにこにこしながら立っていた。その笑顔に半ば押されるように座敷に入り、障子を背にして男の斜向いに座った。 「野狐さん、今日はまだ時間はあるの?」  史乃さんが日本茶を淹れながらそう尋ねた。  慧は座ったはいいものの、居心地が悪くてスマホをとりだした。史乃さん家に来たからといってこの客間にいることはあまりない。いつもなら台所やテレビのある洋間が慧の寛げる居場所だ。  わざわざ座敷に行け、なんてなんだろう。 「ええ、なにか気になることでも?」 「ちょっとね、うちのおじいさんが将棋盤と駒のセットを探してるんだけど、納戸のどこにやったかがわかんなくて」  史乃さんの話を聞き流しながら、学校のクラスでつくられているグループチャットを流し読みする。 ――香坂さんは猫好きって本当ですか? ――来週は地理総合の小テスト抜き打ちの噂あり。――先生の言質とった! ――あの有名猫が行方不明らしい。誰か知らない? ――隣のクラスの松尾さんと3年の近藤先輩はつきあってるって。――マジで? ――見たよ私。  正直、どうでもいい話題ばかりだ。唯一、テストの情報が差し迫ったものぐらいで。 「将棋盤と将棋駒ですか?」 「そう。普段使ってるのは別にあるんだけど、おじいさんいわく値打物のが納戸にしまったきりでわからなくなっちゃって。どうやら将棋仲間に自慢したいらしくてね」 「じゃあ納戸を探せばいいんですかね?」 「お願いできるかしら?」 「将棋セットですね。もちろん。野狐にお任せください。こういうのは御縁ですからね。ささーっと探してみせましょう」  ちらりと目だけあげると、野狐という男は鼻息も荒く胸を叩いた。  まるでゴリラだな、と思わず小さく鼻で笑ってしまい、男が慶を見る前に慌ててスマホに集中するふりした。 「それでね、できれば納戸の整理もお願いできるかしら。物によっては買い取りや引き取りもと思っているんだけれど」 「それももちろん、野狐がお引き受けしましょう。古道具屋ですから、目利きとしてもお使いくだされば」  どうやら野狐というのは男の名前というより、店の名前らしい。  でも古道具屋とかが庭木の剪定までするもんなんだろうか。なんだかうさんくさい。  そう思いつつスマホを見ていると、史乃さんの声がふいに耳に飛びこんできた。 「慧、あんたも手伝いなさいね」 「……ええっ?」  思わず嫌だと顔をしかめながらあげると、史乃さんも野狐という店の男も慧をじっと見ていた。 「なんでオレが」とすぐに否定したのに、斜向いの男が怖いくらいの笑顔を浮かべた。 「そうか! 手伝ってくれるのか! さすが史乃さんのお孫さんだなあ。おばあさんのために自分から動くなんて、男の鑑だねえ!」 「――はあ?」  何を言ってるんだ、このおっさん。自分から動くとか全然言ってないんだけど。 「そう、ありがとう。助かるわ」  史乃さんも嬉しそうに表情を和らげて、「じゃあ少し休んでもらったら、慧に案内させますね」と言った。 「いや、え、待ってよ。オレ帰らないとなんないし、そんな暇」 「うんうん、暇だもんな。高校生はなあ、時間もてあますよなあ。わかるよ、わかるよ慧くん。こういう時こそ、人助けだ。人助けほど時間を割くべきことはないからな」  オレの言葉を勝手にさえぎって、むしろ引き取って変にねじ曲げている。  さすがにムッとしながら慧は「言ってる意味わかんないす」とおっさんに向き直った。  もうおっさんでいい。つうか、おっさん呼びするほか、ない。 「おっさん、なんかさっきから勝手にオレのこと決めてませんか?」 「うん?」  おっさん呼びが少し気に触ったのか、野狐のおっさんは、かすかにほおをひきつらせた。 「オレ、暇じゃないし、おっさんはそれが仕事なんでしょうけど、オレは勉強が仕事なんです。史乃さんには悪いけど、ここ来たのも母さんから頼まれたからだし」  勉強が仕事だって。  内心ではありえないと、つい思ってもないことを口走る。でもいちおう高校生としてはそういう体のはずだ。  通学している高校はいちおう進学校だけれど、柿澤みたいな努力しない秀才もいる。そういう人間を見てしまうと、勉強なんてますますやる気にはなれない。できるやつがやればいいのだ、勉強なんてものは。 「慧。手伝いなさい」 「だから……」 「慧」  史乃さんの声が厳しくなった。  う、とつまる。史乃さんの声から空気が消えたみたいになると、そのうち面倒になることを知っている慧は、大きくため息をついた。 「わかった。やるよ」  言ったとたん、史乃さんがパン、と両手を叩くようにして合わせた。  それを合図に、おっさんが「ごちそうさまでした。では早速、ご面倒をおかけします」と言って立ち上がった。  そしてオレを見て、「よろしく」とどこか勝ち誇ったような顔で笑った。
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